第3話 30年後


 この世界は腐っている。

 8歳のミーシャはでっぱった腹の主人に首輪を引かれながら思う。


 ロンメル神殿の裏手には、よどみが充満していた。

 裏市と呼ばれるこの場所は、盗品から奴隷まで何でも売られている。


 ここの奴隷の一部は神殿が用意しているそうだ。

 どうやら神はわたしたちを見捨てたらしい。


 ぐいと首輪を引かれて、わたしが転ぶ。

 いつものやつだ。


「ミーシャ! お前は歩くこともできねえのか!」


 罵声と共に、暴力が襲いかかってくる。

 ボロ布を纏うわたしが主人に殴られるのを、通行人たちが下卑た顔で見る。


 胸を蹴り飛ばされた。

 肺が潰れて息ができない。


 咳き込んで懸命に空気を取り込んでいると、いつの間にか人垣ができていた。


 ねっとりとした視線が絡みつく。

 男たちの12の瞳が興奮していた。


 わたしの主人、ゼゲルはこうして奴隷を見世物にすることを好む。

 裏市に出れば2,3回はやられる。いつものことだ。


「来い! ノロマが!」


 首輪を引かれ、よたよたと歩き始めると、笑い声が響く。


 男に女。

 かしずく奴隷たちが、わたしを笑う。


 この前、夜のわたしを買った紳士然とした男がこちらを見ていた。

 男は軽く会釈をして、立ち去っていく。


 きっと今夜はお楽しみだろう。

 できれば、あまり殴らないでもらいたい。


 ああ、きっとみんな。

 みんなみんな、生きていて楽しいのだろう。


 死んだ魚のような目で見るこの世界は、どこまでも救いがなかった。


 なぜこんなことになったのだろう。

 奴隷仲間が言うには30年前に影の王が生まれたのが原因らしい。


 影の王は5歳の誕生日に新たな魔法を生み出した。


 『奴隷魔法』


 奴隷の支配に特化したその魔術体系は、すでにあった奴隷制度にのっかって、あっという間に広まった。


 褐色の頬に刻まれた奴隷刻印。

 これがある限り、わたしは……。


「ミーシャ! どこを見ている!」


 ゼゲルが苛立っている。いつものことだ。

 わたしが反応しないのがつまらないのだろう。


 顔を歪ませ、口から腐臭を漂わせながら、ゼゲルが笑う。


 怖気が走る。

 この笑い方は、やばい。


「【痛みをペイ……】」


「あっ」


 ――拷問呪文が来る!


 視界が歪んで、吐き気に襲われる。


 身体が震えて止まらない。

 恐怖に支配されたわたしは、跳ね上がる心臓を押さえつけ。

 失禁しないよう、精神を張り詰める。


 こんなところで漏らしたら、殺される……!

 無様にへたりこんだわたしを、ゼゲルがにやにやと見下していた。


 呪文は唱えられなかった。

 だから、これはただの拒絶反応だ。


 拷問呪文を繰り返された奴隷は、詠唱を聞くだけで心が折れる。

 染みついたトラウマは永遠にわたしを蝕むしばみ続けるのだ。


 視界が定まらない。

 目の焦点が合っていないのだろう。


 ガクガクと震える奴隷わたしの顔をひとしきり楽しむと、ゼゲルが首輪を引く。

 震える足を無理矢理立たせて、奴隷のわたしは歩き出す。


 いつもの、いつものことだ。


 昨日も今日も明日も、何一つ変わらなくても。

 いつものことだと思えば、生きていける。


 そう自分に言い聞かせながら。


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