第15話 これが、クラスで一番可愛い女の子との日常です
「……ごめん。教室での話、聞いてた」
「っ!?」
一ノ瀬の告白に、俺は思わず身体を強張らせる。聞いてた、聞いてたってことは……俺が一ノ瀬の事を好きだってことがバレたってことになるじゃん!?
「実は戸賀崎君が部室を出て行ってからすぐに、私も忘れ物に気付いて、教室に行ったの。そしたら、戸賀崎君が教室に入って行くのが見えて……」
「……ということは、ほぼ最初から聞いてたってこと?」
俺の問いかけに、一ノ瀬はこくんと頷く。
「私も続けて入ろうと思ったんだけど、なんだか教室内の雰囲気がおかしかったから、咄嗟に扉の影へ隠れたの。奏ちゃんも険しい顔してたし、何より戸賀崎君が見たことない表情で3人の事を睨みつけてたから」
雰囲気の機微を感じ取って、扉の影に隠れられる一ノ瀬の空気を読む力は凄い。これで一ノ瀬まで教室に飛び込んでたら、もっと話がややこしくなってただろうし……いや、今はそんな事はどうでもよくて!
「ち、ちなみに、最初からいたってことは話の全てを聞いてたってこと?」
震える声で尋ねる。一ノ瀬の回答によっては、色々と終わってしまうのだが……というか、あの場面に居合わせたのなら絶対に全部の話を聞かれてるだろ。
しかし、一ノ瀬は俺の予想に反してふるふると首を振る。
「ううん、実は最後までは聞いてなくて……あの3人が私の事を『ビッチ』とか『裏では色んな男ととっかひっかえしてる』って言ってた辺りまで」
「そ、そうか……」
一ノ瀬の回答に、俺はホッと胸をなでおろす。どうやら、そこまで聞いて部室に戻ったらしい。
俺が一ノ瀬の事を好きだと言ったシーンは、ギリギリ聞かれていなかったみたいだ。よかったよかった……いや、全然よくないだろ!
告白は聞かれてなかったとしても、あいつらが言った心のない言葉を聞いてたってことになるんだから。
ただでさえ、俺や小鳥遊さんは本当に嫌な気持ちになったんだ。本人である一ノ瀬が傷つかないわけがない。
話の途中で部室に帰ってしまったのも、彼女が傷ついたという証明になるだろう。
「……一ノ瀬。今回の事は、あいつらの逆恨みから起こったことだから、一ノ瀬は何も悪くないからな? あの時の言葉だって――」
「大丈夫、大丈夫! そこまで気にしてるわけじゃないし、私って結構メンタル強いんだから! それに、裏で私の悪口を言ってる人もいるだろうなって、覚悟はしてたし」
俺の言葉を遮るようにして、明るい感じで笑顔を浮かべる一ノ瀬。その違和感しかない表情、そして言動に俺は思わず顔をしかめる。
「いや、メンタル強いって――」
「ほら、私ってさ普段の教室とかでは誰にでもいい顔をする、八方美人なキャラで通ってるじゃん? だから少しくらいの悪口、しょうがないよ。覚悟もしてたくらいだし。誰にでもいい顔するってことは、それだけ敵を作りやすい行為ってことは自覚してるしね!」
またしても、俺の言葉は遮られてしまった。まるで、自分の気持ちを押し殺すかの如く、一ノ瀬は軽い感じでしゃべり続ける。
それがいかにも、演技をしているような、あえて道化を演じているような感じがして、とても辛かった。
「しょうがないって……一ノ瀬、一回話を――」
「しょうがないの。それに、私だってあの子たちの立場だったら同じことしたかもしれないし。戸賀崎君は知らないかもしれないけど、女の嫉妬って本当に怖いんだよ?」
そう言って、苦笑いを浮かべる一ノ瀬。
「嫉妬で周りが見えなくなるというか、私が好きな人をなんであんな目に合わせるんだって、気持ちが強くなっちゃうからね~。だから、今回の事は事故みたいなものなんだよ」
あくまで今回の出来事は仕方のないことだ。そう、彼女は片付けようとしている。
「あーあ、だけどあの先輩をふっちゃったのは間違いだったなぁ~。今度から断り方にも気を付けないと。もっと、穏便な方法もあったはずだからね」
「……一ノ瀬」
「だけど、良かった。奏ちゃんが味方に付いてくれて。今度、ちゃんとお礼言わなきゃ。あっ、もちろん戸賀崎君にもね? 今回は色々と助けてもらっちゃったわけだし。どんなお礼をしてほし――」
「一ノ瀬!!」
思わず、強めの声色で一ノ瀬の話を遮る。これ以上はとても見ていられなかった。
ビクッと、一ノ瀬の肩が震える。
「……頼むから、俺に対して気なんか使わないでくれ。無理しないでくれ」
気付くと俺は、一ノ瀬にそう言っていた。真っ直ぐに彼女を見つめる瞳に力が入る。俺の気持ちを、想いを少しでも彼女に伝わるように……。
彼女は我慢している。大丈夫だと、心配するなと、自分に言い聞かせている。そんなの、誰の目から見ても明らかだった。
……大丈夫だって、笑う彼女の顔があまりに痛々しくて、泣いてるときよりも泣いてるように見えたから。
俺が無茶したときにはあれだけ怒って、涙も流しそうになってくれたのに……自分の事になると感情に蓋をしかけている。心配をかけまいと、歯をくいしばって耐えている。
これだけで、一ノ瀬がどれだけ人に対して気を遣えて……優しい女の子かって事が理解できる気がした。
「しょうがないわけないだろ。女の嫉妬? 事故? そんな言葉で片付けんなよ。あんなの、あいつらが勝手に逆恨みしただけで、お前が悪いところなんて一つもなかったんだから」
思わず彼女の右手を握り締める。その手は男の俺の手と比べると華奢で、少しでも強く握れば折れてしまいそうだった。
「あいつらの言葉だって、ただの嫉妬に狂った言葉だ。一ノ瀬はただ、先輩と付き合う気はなかったから振った。ただ、それだけの事だろ? だから、今みたいに感情を殺してあいつらの悪口を受け入れる必要なんて、全くないんだよ!」
俺の言葉を聞いた彼女の右手が小刻みに震えはじめる。
やっぱり耐えていた……その事を悟った俺の方が泣きそうになったが、グッと堪える。
「お前はあいつらの立場だったら同じようなことをするって言ったけど、俺は一ノ瀬が同じことをするなんて絶対に思えない。絶対にだ」
一ノ瀬の右手を握り締めながら続ける。こんなに賢くて、優しい女の子がそんな卑怯なこと、卑劣なことができるわけがない。
「俺は教室での一ノ瀬も、オタク全開で話す一ノ瀬も、どっちも知ってる。……それを知ったうえで、絶対にしないって言ってんだからさ。それに、あいつらの言ったことなんて、嘘だってちゃんとわかってるから」
くしゃっと、それまで一ノ瀬を武装していた仮面が崩れる。
「俺は一ノ瀬と一緒に居る時は、楽しいって思ってるし、これからもずっと一緒に居たいって思ってる。だから……辛いときは辛いって、ちゃんと言ってくれ。」
「……いい、の?」
「いいに決まってるだろ。俺じゃ心許ないかもしれないけど、辛さを共有することくらいなら俺でも出来るから」
「……とが、さきく、……」
そこから先は言葉にならなかった。一ノ瀬の左手が俺のYシャツの端に伸び、キュッと握り締める。そして、そのまま俺の胸に顔を埋めるようにして表情を隠す。
すぐに、嗚咽が聞こえてきた。
「ごめん……っ、ごめんね」
「いいから。大丈夫だから」
俺の胸で、声を殺して涙を流す一ノ瀬。嗚咽の漏れる彼女の背中を優しくさする。頭を撫でようとしたが、流石にそこまで出来る勇気はなかった。
嗚咽をもらすその姿に、普段の明るさは微塵も感じない。ただただ、心無い悪口で傷つく、一人の女の子の姿がそこにはあった。
人の悪意をうけて傷つかない人間なんてこの世に一人もいない。メンタルが強いとか弱いとか、そんなことは何も関係がないんだ。
それこそ、100の善意を受けたとしても、1つの悪意で全てが崩れ去る。それだけ、人間って生き物は脆い生き物なのだ。手段がSNSであろうと、なんであろうと関係ない。
あいつらはそのやり方を、一番卑怯やり方でやったんだ。自分は傷つかず、他人だけ傷つける最低な方法。しかも、本人に聞かれていないかもといって言いたい放題……。本当に反吐が出る。
「……っ、……っく、……っ」
我慢していた分、溢れだした感情は中々収まらないみたいだ。俺はその間も一ノ瀬の背中をさすり続ける。
少しでも、我慢していたものを吐き出せるように。彼女が安心できるように。
どれくらい時間が経っただろうか?
一ノ瀬がゆっくりと顔を上げる。
泣きはらした目は真っ赤に染まっている。だけど、涙を流した後のその表情ですら美しい……と不謹慎ながらそう思ってしまう。
「……ごめん、ありがと」
「……おう。もう大丈夫か?」
「…………うん、すっきりした」
「そっか……」
『…………』
会話が途切れてしまい、気まずい沈黙が2人の間を流れる。しかし、その間も俺は彼女から目を逸らすことができなかった。
涙に濡れた美しい瞳から、目を逸らすことができない。一ノ瀬も恥ずかしそうにしているが、決して目を逸らすことなく俺を見つめている。
(さ、流石にこれ以上は……)
危ない気持ちが湧きあがってきそうになる。これ以上はやばいと感じた俺は彼女から距離をとろうとして……しかし、彼女はそれを許さなかった。
「戸賀崎君……」
「ん? ……って、お、おいっ! ど、どうした――」
「……ごめん、やっぱり大丈夫じゃなかったみたい」
どういうわけか、一ノ瀬が再び俺の胸に顔を埋めてきた。彼女との距離がゼロになる。しかも、今度は彼女の腕が俺の腰にまわされるというおまけつき。
「もうちょっと、こうさせて」
さっきは俺主導だったから耐えられたけど、今回はいくらなんでもヤバすぎる。
密着度で言ったら今回の方がはるかに上で、制服越しにもわかる彼女のもつふくらみが、甘い香りが、残っていた理性をゴリゴリと溶かしていく。
「い、一ノ瀬さん!? 流石にこれはヤバいって」
「…………」
最後の抵抗とばかりに問い掛けるも、何も答えない一ノ瀬。代わりに、腰にまわされた腕にギュッと力がこもる。まるで、俺の問いかけを無視するかのように、絶対に離さないように……。
そんな時間が約1分ほど、続いただろうか?
腰にまわされた腕の力がふっと緩み、ようやく一ノ瀬が俺から距離をとる。
『…………』
離れた俺たちは当然無言であり、先ほどと同様に気まずい沈黙が2人を支配する。
一ノ瀬の表情は俯いているため確認できないが、髪の隙間から覗く耳は左右どちらも、真っ赤に染まっていた。
一方、俺は俺で、とんでもない恥ずかしさのお蔭で頭が沸騰しかけていた。
やわらかい感触や甘い香りが、俺の脳裏から離れてくれない。俺からは見えないけど多分、顔は人生で一番真っ赤に染まっていることだろう。人生で感じたことがないくらいの、顔の熱さを感じていた。
「……ごめん」
「へっ?」
「……我が儘、言っちゃったから」
我が儘……恐らく、もう一度抱き付いてきた時の事を言っているのだろう。しかし、先ほどは驚いてしまったが、俺にとってはむしろご褒美であったわけで……。
「いや、全然気にしてないから」
「……ほんと?」
「ほんとほんと。むしろ、ありがとうございますというか……」
「……ふふっ、変なの」
訳の分からない俺の言葉を受けて、一ノ瀬の表情がふっと緩む。その自然な笑顔に
俺は思わず見惚れてしまう。
俺のずっと見たかった笑顔、そのものだった。
「ん? どうかした?」
「……あっ、いや、何でもないよ。それに、俺の方こそ謝んなきゃなって」
「えっ? 何のこと?」
見惚れていたことを誤魔化すかのように、俺は話を逸らす。しかし、一ノ瀬には伝わっていない模様。
「その、泣いてるとき勝手に背中さすっちゃったから。……嫌じゃなかったかなって」
「そんなこと? 全然、気にしてないから。……むしろ、すごく安心できたよ」
「そ、そうか……」
「うん。……またさすってほしいくらい」
「んぅっ!?」
「あははっ、なにその声? 冗談だったのに」
話を逸らして顔の火照りを冷ますつもりが、逆効果になってしまった。というか、冗談って何だよ!! 純情な男子高校生の心を弄ばないでほしい。しかし、いつもの空気感が戻ってきたのもまた事実だった。
クスクスと笑う一ノ瀬に、せめてものお返しとばかりにキッと睨みつける。しかし、さながら小動物の威嚇程度にしか見えていないだろう。
「そんな目で見ても、別に怖くないわよ」
「く、くそ……何たる屈辱」
「だけどね、安心できたのはほんと。戸賀崎君の言葉、ちゃんと伝わったから。それに、戸賀崎君。教室で私のこと、必死に庇ってくれてたでしょ?」
「いや、まぁ、あれは俺じゃなくても庇うだろ。別に俺だったからってわけじゃ――」
「ううん、戸賀崎君だからかばってくれたって。私、そう思ってる」
一ノ瀬は俺の両手を包み込むようにして握り締め、しっかりと俺の瞳を見つめると、
「だからね、ありがとう。すごく、嬉しかった」
……やばい。今のは本当にやばい。俺は今度こそ、しっかりと彼女から視線を逸らす。今の顔を、彼女に見られるわけにはいかなかった。
こんなにやけてる顔、一ノ瀬に見せられるわけないだろ。
心臓が、かつてないくらいにドクンドクンと波打っている。好きな人にあんなこと言われれば、ある意味当然だろう。破壊力があり過ぎる。あんなの、どれだけ防御を固めていても無意味だった。
「……戸賀崎君ってば、顔真っ赤。どうかしたの?」
「…………別に。ちょっと、この部屋が暑いだけだよ」
「ふふっ、そう言うことにしてあげるわね♪ それにしても戸賀崎君だけじゃなくて、まさか奏ちゃんが庇ってくれてるなんて意外だったな~」
「確かにな。別にギャルってだけで、悪い人ではないと思ってたんだけど。今回の出来事で、滅茶苦茶彼女に対する株あがったし」
「そうそう! 今度、改めてちゃんとお礼言わなくちゃ」
一ノ瀬の言う通り、今回影のMVPでもある小鳥遊さんには俺からも、ちゃんとお礼を言っておこう。
もしかすると、いずれこの部屋にも来てもらうかもしれないしな。多分、小鳥遊さんなら一ノ瀬がオタクだって知っても、バカにしたりはしないだろう。
まっ、それもいつの話になるか分からないけどな。
……ちなみに近い将来、俺たちと小鳥遊さんが意外な形でかかわるようになるのは、また別のお話。
そんなこんなで、様々なことが起こったラノベ失踪事件だったが、最後の最後で俺の記憶の中には、一ノ瀬との甘酸っぱい記憶が刻まれたのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
さて、なんだか色々な出来事が重なってしまったが、事の顛末だけ話しておこう。
結局、あの3人についてはあれ以降(大体2週間くらい経過したけど)、何かを仕掛けてくることはなかった。
まぁ、俺にあの会話を録音されてると思ってるし、自分たちの評価も下げたくないだろうから当然の事だろう。
たまーに、視線を感じる時もあるのだが、それはそれですべて無視していた。あいつらから俺に絡んでくることもないしな。
……下手にかかわると、実はうまく録音できてない部分がありましたって事がバレかねないし。
まぁ、一ノ瀬を貶めようとしたバツということで、精々ビビッて過ごしてくれればいいさ。
また、俺は相変わらず教室内では『オタクの戸賀崎』ってことで、クラスに馴染んでいた(それもそれでどうかと思うんだけど)。
あれからも、クラスの男子の中でいらないラノベや漫画などがある場合には、山口君経由で俺の元に運ばれてくることがしばしば。
輝からは『色々大変だな』と同情され、一ノ瀬からは『これで部室がもっと華やかになるわね!』と嬉しがられていた。まぁ、クラスで孤立しないだけいいということにしよう。
ちなみに、女子たちの反応は半々くらい。からかわれることもあれば、本気で引いている人もいるようだ。まぁ、その反応も仕方のないことだろう。こればっかりは、時間が解決してくれるような問題でもないし。
しかし、元々クラスで話すことのある女子なんてほとんどいないので、ほぼノーダメージであった。……別に泣いてないからな?
一方の一ノ瀬は、全て知ったうえであいつらとうまく関わっていくことにしたらしい。あいつらに、今回の事を知っているということも内緒にしておくと言っていた。
そして、彼女たちに罰を与えないでほしいとのこと。
俺からしてみれば、すぐにでも録音データ(一部の悪口はちゃんと録音出来ていたため)を流してやりたいところだったのだが、
『別にこの一件がある前も、あの子たちとそんなに話したことはなかったから大丈夫よ。それに、ここで録音データを流しても、クラス内が気まずくなっちゃうだけだから』
とのこと。何とも心が広いというべきか、強いというべきか。これこそ、一ノ瀬舞という人間性を表しているような気がする。その証拠に、話す機会があればいつもと変わらない様子で話してるし。
クラスを気まずくさせたくない……確かに、一ノ瀬のということもよく分かるのだが、それにしたって中々寛大な対応であると言わざるをえないだろう。
一応、あの三人から嫌がらせを受けた時には、すぐに教えてくれと伝えておいたが、2週間ほど経過した今も特にいざこざは起こっていなかった。
そして、唯一今回の出来事を知る小鳥遊さんについてだが、彼女も彼女で今回の事は黙っていることにしたとのこと。これも、一ノ瀬から止められたので仕方なくと言っていた。
ただ、一ノ瀬からは『奏ちゃんを止めるの、すごく苦労した……』と、苦笑いで話していたので、本当はクラスの皆にあの三人の悪事を話したかったということは容易に想像できる。
俺だって、一ノ瀬に止められてなきゃ間違いなく話してただろうしな。
ちなみに、あの事件以降、一ノ瀬と小鳥遊さんはかなり仲が良くなったようで、普段からラインのやり取りをするようにまでなったとのこと。
小鳥遊さんはオタクではないので、その手の話ができないことだけ、一ノ瀬は残念がっていた。
それでも、教室なんかでよく話している姿を見かけるため、主に男子生徒から『目の保養に素晴らしい』と崇められていた。うん、今日もクラスは至って平和なようでなによりです。
そして、これが俺にとって一番重要な出来事だったのだが、
「ねぇ、亮。ちょっと聞いてほしんだけど」
「……ん? どうかした?」
「今日出された宿題で、一箇所よく分からないところがあって」
今は放課後となり、いつも通り一ノ瀬と部活という名のオタ活に勤しんでいたのだが……一ノ瀬が、なぜか俺の事を名前で呼ぶようになった。しかも、呼び捨て。
もちろん、教室では『戸賀崎君』だが、部室では違う。冒頭のような名前呼び。未だに慣れなくて、呼ばれるたびに心臓が跳ね上がる。
いつから、俺の事を名前で呼ぶようになったのか。実は、あの一件があった後にすぐ名前呼びになったのだが、その時もひと悶着あって……。
『……ねぇ、これからは名前で呼ぶから』
『はっ!? なんだよ急に!?』
『なんだもなにも、私たちってもう知り合いって関係じゃないし、名前で呼ぶ方がしっくりくるかなって。それに、戸賀崎って微妙に呼びずらいのよね~』
『酷い! 人の名字にケチつけるなんて。俺のご先祖様に謝れ』
酷い理由ではあるのだが、それにしたって急すぎる。俺のほうはまだ、先ほどの出来事(抱き付かれた)ことが全く整理できていないのに……。
しかし、そんな俺の事を待ってくれる一ノ瀬ではない。
『とにかく、名前で呼ぶからね?』
『いやいや、まだ俺の方が納得できてな――』
『亮』
抵抗空しく、彼女の口から初めて俺の名前が呼ばれた。しかも、君付けなどでもなく、シンプルな呼び捨て。その名前呼びに、俺の身体はまるで電流が走ったかのような感覚に襲われる。
『は、はいっ!』
『何で敬語なのよ? 別に、名前を呼んだだけなのに』
『いや、これまで一ノ瀬から名前で呼ばれたことがなかったわけだし』
『……一ノ瀬』
『へっ?』
見ると、一ノ瀬は不満げに唇を尖らせている。……いや、理由はもちろん分かってるんだけど。
『……な、なんですか?』
『……ねぇ、亮は名前で呼んでくれないの?
甘えるような上目遣い。そして、名前呼び。ものすごい破壊力を秘めた2連コンボにより、俺の精神ゲージが一気に削られる。
もちろん、名前で呼びたくないわけじゃないんだけど……。
『……俺はまだちょっと無理……です。こ、心の準備ができてからでお願いします』
情けない話なのだが、これが今俺ができる精一杯の回答だった。一ノ瀬の口から出る『亮』呼びですら全く慣れる感じがしないのに、この短期間で彼女の事を名前で呼ぶなんて、土台無理な話だ。
心の準備ができるまで、しばし時間を頂きたいです。
そんな俺の反応に一ノ瀬は、『はぁ……』とあからさまなため息をつく。
『はぁ……まぁ知ってたけどね。亮が女の子の名前も呼べないようなヘタレ童〇だってことは』
『ど、どどど、童〇……です』
紛れもない事実だったので、俺は思わず項垂れてしまう。こういう時に、人生でもっと女の子と絡んでくるんだったと後悔してしまう。
女の子慣れしてるイケメンはきっと、さらっと名前呼びするんだろうな。
『……いくじなし。あの時は凄く、カッコよかったのに』
『えっ? 何か言った?』
『何でもないわ! それよりも名前呼び、私よりも先に別の女の子にしたら許さないからね?』
『いや、多分そんな事ないだろうから、大丈夫だと思うけど』
『それでもよ! 全く、早く心の準備をしなさいよね?』
『……善処します』
『待ってるから』
……と、言った出来事が起こっていたのだ。
そして、俺はまだ一ノ瀬の事を名前で呼べていない。……ヘタレでも、何とでも言ってくれ。
「それにしても、亮は何時になったら私の事を名前で呼んでくれるのよ?」
宿題で分からない部分を解きつつ、不満げな表情でクレームをつける一ノ瀬。この反応までがワンセットな感じはするな。
「分かってる。分かってるから……あと、1週間」
「……この前も似たようなこと言ってなかった?」
「ソ、ソンナコトナイデスヨ~」
「はぁ……ほんと、亮って肝心なところでヘタレよね~」
「う、うるさい!」
「まっ、いいわ。気長に待ってるから」
もはや期待されなくなったのか、雑な反応が一ノ瀬から帰ってくる。全部俺が原因なので、何も言い返すことはできない。うーん、悲しい。
「さて、宿題も片付いた事だし、部活を始めましょうか!」
「今日は何するんだ? またアニメでも見る?」
「今日は、また私が素晴らしき神作品を見つけたから、その紹介をしてあげようと思って! きっと、亮も気に入ってくれるはずよ!」
そういって、ごそごそと鞄を漁る一ノ瀬を見ながら、本当にこの前の事が無事に解決してよかったと実感する。
そうじゃなきゃ、今こうやって一ノ瀬と部活ができてないかもしれないし、あの出来事以降、彼女と疎遠になってかもしれないからな。
あの時、一ノ瀬の事を助けて本当によかった。勇気を振り絞って本当によかったと思う。助けていなかったら、一生後悔しているところだった。
なんて、しみじみ感傷にふけっていたら、
「はい、これが今回、亮に紹介したい漫画よ! 『転生したらゴブリンに○される村人だった件について』!!」
「台無しだよ!!」
これが、クラスで一番可愛いと言われている女の子、オタクでもある一ノ瀬舞との日常です。
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