05-06
細いけれども勢いのある雨粒が、傘に弾けてぴつぴつと音を立てている。
川沿いの道を、歩いている。
寒い。
身を切られるような、という表現があるが、まさにそんな感じだ。
今夜遅くから雪に変わるという予報が出ているが、だというのにトレーナーの上に薄地のジャンパー、膝丈のスカートという服装なのだから、寒く冷たいのも当然だろう。
それがさして気にならないのは、心の方が遥かに冷え込んでいたから。というよりも、そんな状態だからこそ、こんな格好で平気で外に出てしまったわけで。
雨の中、川沿いの道。
傘に弾ける雨粒。
香奈の顔は、酷い状態だ。
顔の全体が、傷だらけ痣だらけ。紫色に腫れている。
右目など、中に何が詰まっているのかというくらいに膨れあがっており、そこだけ見ればまるで別人の人相だ。
姉に殴られたことによる腫れである。
悪いのは自分だから、なにをいう資格もないのだが。
心の傷をえぐり、殴られたのだ。
殴る方よりも、心の傷をえぐる方が悪いに決まっている。
余計なことをした、と分かっている。
分かっていて、臨んだ。
姉を思っていいことをしたんだ、などと居直るつもりはこれっぽっちもない。
でも、このままでは変わらないと思ったから。
きっかけを作りたい、と思ったから。
例えわたしが悪い人間だろうと構わない、とにかく変えたかった。
なにが起きて姉がああなったのか、知っているから、
わたしだけが、知っているから。
なにがあったのか。
一年前のあの日、なにが起きたのかを。
なにが、あったのかを。
わたしは、
わたしたちは……
「ダメだ、暗くなっちゃ。笑顔。元気。こんな時こそ笑顔だあ!」
香奈はぶるぶるっと首を振ると、突然ギターを弾く真似を始めた。
首で、傘を挟みながら、
「ずががが、ぎゃぎゃ、ちょうぃいーん」
浅草で、フラワーたちとやったエアバンド。
あの時のバカバカしい楽しさを思い出しながら。
いつかお姉ちゃんともこんなことしてみたい、なんということのないバカなことで笑い合いたい、と想像願望を膨らませながら。
姉と、二人でギターを弾く。
二人で、歌う。
一つのマイクに顔を寄せて。
笑顔で、歌う。
ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ、
ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ、
そんな楽しいことを想像しながら、
微笑みながら、
香奈は、エアのピックを楽しそうに振るう。
と、その手が不意に止まり、そーっと降りていた。
細く冷たい雨の中。
凍えそうな寒気の中。
犬を、見た。
よろよろと、歩いている犬を。
先週くらいからよく見る、もしかしたら目が見えていないかも知れない、秋田犬のような中型犬。
歩き方が、以前よりも酷くなっている。
四本足でただ立っていることすらも苦しそうだ。
歩を踏み出すたび、倒れないようぐっとこらえているのがなんとも痛々しい。
香奈は、ごくり唾を飲み込んだ。
以前に思った通り、やっぱり本当に目が見えていなくて、だから、捨てられたのだろうか。
この前はもう少し元気そうに見えたが、それはまだ捨てられて間もない頃だったから、ということだろうか。
がりがりで、ボロボロで、いまにも死んでしまいそうだ。骨と皮しかない。
抱えられない大きさじゃないし、あの時に保護してあげておけばよかったのかな。
いまからでも、家に連れて帰ろうか。
お父さんには怒られるかも知れないけど。
それよりまずは動物病院の方がいいんだろうけど、何時までやっているんだろう。
あれ、そもそもこの辺りにあったっけ? 駅の反対側で、見たような気はするけど。
まあいいや、そんなこと。
とりあえず、保護しよう。
暴れられるかも知れないけど、噛まれたり爪を立てられたりするかも知れないけど、そんなこといってられない。
まずは、なんとしてでも家に連れて帰って、親に事情を話すんだ。きっと分かってくれる。力を貸してくれる。
ギターだって買ってくれたじゃないか。
よし、
と、意を決して近寄ろうとした、その瞬間であった。
街灯の薄暗い明かりの中、犬の姿が、消えていた。
水しぶきが上がったような音に、ぎゃん、という動物の悲鳴が続いた。
香奈は、目を見開いていた。
傘を投げ捨て、川沿いの金網フェンスへと駆け寄っていた。
フェンスに両手を置いて、川を覗き込んだ。
なにか小さなものが、ばしゃばしゃともがき暴れながら、流されていく。
あの犬だ。
暗くてよく見えないが間違いない、あの犬だ。
足元を見ると、金網フェンスの一部が破れている。きっとここから落ちたのだ。
雨の降り自体はたいしたことはないが、昨日からずっと続いているため川は増水して流れは早い。
「大変だ……」
この流れじゃ、この冷たさじゃ、すぐに死んじゃう!
すぐに引っ張り上げたとしても、もう助からないかも知れないけど……
でも……
でもっ、
香奈は、走り出していた。
フェンスに沿って、走り出していた。
絶望感、無力感に支配されながらも、泣きそうな表情で、懸命に腕を振る。
雨に打たれながら。
目の前で消えかけている生命。
暴れ、もがき、生へしがみつこうとする、生命。
走らないわけには、いかなかった。
助けようとしないわけには、いかなかった。
どこか、引き上げられそうな場所はないか。
急がないと、早くしないと、どんどん川幅が広くなっていくだけだ。
どんどん可能性が少なくなっていくだけだ。
多少無理をしてでも、早く助けないと。
どこでどう助けるにしても、まずは、追い抜かないと、先回りしないと。
細い雨に身体を打たれながら、香奈は走る速度を上げた。
頑張れ、
頑張れ、
川の流れにもがき、沈んだり浮いたりしている犬へ、ちらちらと視線を送りながら、
心の中で励ましながら、
なりふり構わず、全力で走る。
と、その時であった。
熱いほどの強い光が網膜に飛び込んできたのは。
その眩しさに目を細めたのは。
なんだろう、と思う暇もなかった。
きききききい、
高く不快な音を立て空気を切り裂きながら、それは、香奈へと突っ込んできたのである。
少女の小柄な身体は、その真っ白な光の中に包まれていた。
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