第1章 ヘビメタ老人

01-01

「ふざけやがって!」


 怒声が空気をつんざくのと、目のすぐ上にガツッとなにか硬い物が当たるのは同時だった。

 たかつかは、痛みと脳を揺さぶる衝撃とに、顔を歪め歯をきしらせた。

 顔に当たったのは、目覚し時計であった。床に落ちて、裏側の蓋が外れて電池が転がった。

 反射的に目の上を押さえたその瞬間、ぶんと唸り飛んできたカバンが、鈍い音とともにお腹に当たった。


「見下しやがって! 気持ちいいかっ!」


 姉、たかつからいが、自分の部屋の中央で怒鳴り喚いている。


「こんなあたしを見ているのが気持ちいいんだろ! だから、いちいちくるんだろ!」

「そんなことないよ。わたしは、ただっ……」


 引きつったような顔の筋肉を、なんとかコントロールして必死に笑顔を作ろうとする香奈であるが、その努力はただ姉の怒りを誘うだけであった。


「なに、へらへら笑ってんだあ!」


 たっと近付いた魅来に、両手で強く胸を突き飛ばされた香奈は、後ろに転び倒れ、廊下の壁に後頭部をぶつけた。

 くっ、と呻き顔を歪めた瞬間、踏み降ろされた姉のかかとがお腹にめり込んでいた。

 香奈は目を見開き、もよおす気持ち悪さに口に手を当てた。


 ここまでするつもりはなかった、ということであろうか。魅来の顔に、明らかな動揺の表情が浮かんでいたのは。

 申し訳なさそうな、心配そうな。

 だがそれも一瞬、魅来はぶんと首を振ると、妹の顔を睨み付けた。


「ムカつくんだよ、てめえ。意味もないのに笑ってばかりいやがってさあ。へらへらへらへら、笑ってばかりいて。そうやってバカにして! そうやって見下して! ふざけんなあ!」


 怒鳴りながら自分の部屋に戻った魅来は、ベッド上の枕を掴み振り上げると、くるり振り向くや勢いよく振り下ろした。

 ぎっちり詰まった重たい枕に鼻をぶち抜かれ、香奈はまた後頭部を壁に打ち付けて、呻くような呼気を漏らした。


 姉妹喧嘩、というよりはどう見ても一方的な暴力であった。

 なぜこのような状況になっているのか。


 簡単でもよいのならば、それほどの字数は消費せず説明可能だ。

 香奈が姉の魅来に、「なんかお話しようよ」といったところ大爆発された。

 ただ、それだけだ。


 廊下に尻をついている香奈は、頭を振ると、脇に落ちている目覚し時計を拾い、電池と電池蓋を直して、枕とともに姉の部屋の前に置くと、ふらふらとしながら立ち上がった。


「また、遊びにくるね、お姉ちゃん」


 顔に笑みのようなものを作り、震える声でそういうと、部屋のドアを閉めた。


 どがん、とドアに重たい物が当たったような音が響いた。


 香奈はドアの前で、しばらく呆然と突っ立っていた。

 最初は、なにをどう思考してよいか分からない状態であったが、時間が経つにつれてだんだんと感情の整理が出来てくる。

 しかし、冷静になるにつれ、冷静でいられなくなり、不意にどっと込み上げる負の感情に泣きそうな顔になっていた。


 ひぐっ、と顔を引きつらせながら息を飲むと、ぶんぶんと首を振った。

 なんとか笑顔のようなものを作ろうと、両手の指を頬に当てて、にいっ、と口元をつり上げて見せる。

 続いて、降ろした腕をお腹の前で交差、自分を抱きしめるように脇腹をくすぐり始めた。


「元気。笑顔。元気っ。笑顔っ」


 作った笑顔でそうささやきながら、香奈は自分の身体をくすぐり続けた。

 そのまま自分の部屋に入っても、なおくすぐり続けた。

 元気、笑顔、と呪文のように唱え続けた。


 きっと、いつか、分かってくれるから。

 きっと、いつか、二人で笑い合える時がくるから。

 絶対にくるから。

 だから。


 と、心にいい続けながら。

 でも、それが彼女の限界だった。

 つう、と頬に熱いものが伝うと、ベッドに突っ伏して、声を押し殺しながら泣き続けた。

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