羊人間

間野 ハルヒコ

羊人間


 指腹さしばら


 1991年に民俗学者の千葉ちば 徳爾とくじが紹介した江戸時代の習俗で「自らが切腹に使用した刀を遺恨いこんのあるものに送りつけ、切腹させる。」という物騒なものだ。


 弱き者が泣き寝入りをしないための最後の手段。

 命をもって死を要求するその様は、まるで呪いの具現である。


 恐ろしいのは、これが習俗として習慣化されていた点だ。


 切腹を拒否すれば、周囲から同調圧力がかけられたことは想像に難くないし、社会的制裁は時に家族にも及ぶだろう。


 自らの死を触媒に相手を呪う試みは、国内外を問わず枚挙にいとまがない。

 そして、別段。過去のものでもない。


 恨みを胸に死にゆくものがいる限り、呪いは永遠なのだ。


 


 秋も終わり、冬が近づく頃。


 わたしは物騒な冒頭を読み終えて、病院のベッドでため息をついた。

 点滴がぽたり、ぽたりと落ちていく。


「お話を伺えると聞いて居てもたっても居られず。少し早く着いてしまいました。」


 そう、穏やかに告げる男は作家を名乗っていた。

 わたしの母校で起こった事件について調べ、小説にしたいのだそうだ。


 大方、当時の新聞でも見つけたのだろう。


 あの事件では自殺者が出ているし、連鎖的に自殺未遂が起きて、クラスの半数の手首には自傷した痕が残っているだろうから、題材としては刺激的で面白いのかもしれない。


 当事者からすると、不謹慎極まりないが。


「ありがたいものです。快く話してくれるのはあなたくらいのものですよ。」


 それはそうだろうな。と、わたしは思った。

 誰だって人生の恥部ちぶを語りたくはない。


 あのクラスの半数の人間がそうであるように、わたしの手首にも自傷の痕がある。


 カッターで切ったのだ。


 


 わたしが通っていた中学にはいじめがあった。

 中二の春先頃から始まって、夏休み明けに悪化した。


 最初は仲間はずれにされる程度だったけど、そのうち靴を隠されるようになり、夏休み明けにはトイレで水をかけられていた。


 名前は出したくないな、ひとまずKだ。Kにしよう。


 Kはよく笑う子だった。

 今思えば、笑うしかなかったのかもしれない。


 羊みたいにメェとでも鳴きそうな顔をして、いつも遠くからこっちをじっと見ていた。


 わたしだって何とかしたかったんだよ。

 だから、先生に告げ口したんだ。


 女の先生でさ。

 気が弱そうなのに怒る時はちゃんと怒る人だった。


 みんなの前で仲直りさせたりもした。

 でも、止まらなかった。


 わたしも止めなかったけれど、みんなも止めなかった。


 いや、止めようとした子はいたな。

 何かメェメェ鳴いていたけど。結局はいじめられる側が増えただけだった。


 羊が狼に意見したら、かじられるのは当然だ。



 いじめがよくないということは知っているよ。

 でも、倫理的に正しいからって平穏に生きられるとは限らない。


 わたしたちはただの無力な羊だったんだ。

 遠巻きにメェメェ鳴いていることくらいしかできなかった。


 気づかれないようにメェってね。



 何もわたしまで犠牲の羊になることはない。

 その役目は別の誰かがすればいいのだから。


 いじめっ子というのがまたひどいやつでね。カッター渡して「これで自殺しろ」って言うんだよ。もちろん冗談だったんだろうけどね。そもそもカッターで死ねるわけもないし。


 そんなもので死ねるなら、わたしはもうとっくに死んでいるからね。

 見てよこの傷。ははは、笑えないな。




 あー、うん。

 同じことをバイト先でやったら捕まると思うよ。


 殴るのはストレートに暴行だし、カッターの件は自殺教唆に当たる。

 学校では許されるのが不思議なくらいだ。


 通報自体はあったのだけど。

 あの件で警察が動いたのはKが自殺した後だった。


 本当に大変だったよ。

 一人ずつ事情聴取されてさ、強面のおっさんに「人としてどうの」と言われた。



 今更、人として扱われても困るよ。

 わたしたちは無力な羊なんだから。


 あの状況で助けるとか無理だってみんなわかっているんだ。


 だから、適当にはいはい言ってスルーする。

 それなりに演技はするけどね。でないと話が長くなるからさ。



 ああ、思い出した。

 神妙な顔をして、頭を下げ続けていると変な気分になるんだ。


 だって、わたし悪くなくない?

 たまたまそこに居合わせただけで、なんであんなに怒鳴られなきゃならないの?


 助けるといじめられるし、助けないと怒鳴られる。

 あのクラスになった時点で詰んでるよね。


 先生なんて「傍観者も同罪です」とか言い出してさ。

 どうしろって言うのさ、本当に。


 大人って嘘つきだなって中学生ながらに思ったよ。



 あれって、実際に正しいかどうかは関係ないんだよね。先生には先生の、警察には警察の立場があってやっているだけだから。


 後出しで都合のいいルールを持ち出しているようなものだよ。

 早い段階でクラスメイトのせいにできれば、先生も警察も責任逃れができる。


 逆に責任を追求されると、いい大人がメェメェ鳴き出すんだよ。これがまた笑えるんだ。


 警察が早く動いていればとか、先生がしっかりしていればとか、クラスが結束していればとか、そういう責任の押し付け合いが始まる。


 誰もが無力な羊でありたがる。

 口からよだれを垂れ流しながら、メェメェ鳴き続けるんだ。


「お前のせいだ。お前のせいだって」


 みんなそうだったし、わたしもそうだった。





 さて、本題はここからでね。


 いつだったかな、警察の事情聴取の後あたりだったと思うけど、机の引き出しにカッターと手紙が入っていたんだ。先生とクラス全員分あった。


 手紙の内容は「死ね」だった。


 カッターに血がついていたものだから、事件性が出てしまって、また警察の事情聴取だよ。散々犯人扱いされてさ。


 わたしたちにできることなんて、無害な羊らしくメェメェ鳴くことだけだったよ。


 ちなみに犯人はKの父親だった。

 刃物を送りつける行為は脅迫扱いになるから、すぐに書類送検された。


 カッターについていた血はKの血でさ。


 Kは春先から日常的にリストカットしていて、いつか裁判で使う証拠のひとつとしてKの父親が回収していたんだ。


 先生は「傍観者も同罪」とか言っていたけど、一人娘を殺されたKの父親からすれば「先生も同罪」だったのだろう。だから先生の引き出しにもカッターを入れた。


 もう、これは呪いだよね。

 恨みが形をとっている。


 幽霊はいないとかいう言葉があるけれど。

 呪いは確実に存在する。


 実際、あのクラスは呪われた。



 あれから、みんなおかしくなっていったんだ。

 元々おかしかったのかもしれないけど、もっとおかしくなった。


 度重なる保護者からのクレームで先生は心を壊してしまったし。


 先生がダメになった途端、嫌いなやつの机の中にカッターを放り込むのが流行った。


 後はもう真っ逆さまだ。


 これまでKと一緒にいじめられていた子は復讐とばかりにカッターをプレゼントしまくった。いじめっ子の引き出しはカッターでいっぱい。


 そのいくつかには血がついていて、手首には包帯が巻かれていた。

 メェェと鳴く声も、その時ばかりは語尾が楽しそうに震えていたっけ。


 呪いだよ。

 呪いは人を狂わせる。


「わかったよ、これでいいんだろ!」


 だったかな、確かそんなことを言って元いじめっ子は手首を切った。みんなの前でね。


 そうすることで、罪が消えると思ったんじゃないかな。

 こうすれば呪いから逃れられると、そう思ったのだろう。


 でも、その考えは甘かった。

 むしろ猛烈にいじめられるようになったんだ。


 狼は必死にメェと鳴いて無害な羊を装った。

 でも、誰も聞く耳なんて持ったりしない。


 だってそうだろう? こいつが元凶なのだから。


 誰もが無害な羊の顔をして、正義の棍棒を振りかざす。

 実際には殴らないよ、それは悪い狼のすることだ。


 羊人間たちは何も言わずにカッターを差し出す。

 カッターに込められた意味は「自殺しろ」だ。


 一緒になっていじめていた狼たちも、無害な羊の振りをしてカッターを買い集めた。文房具屋からはカッターがなくなった。



 目の前で手首を切っても無駄さ。

 だってまだ生きているじゃないか。


 Kはもう死んでいるんだぞ。


 メェと鳴いても無駄だよ。

 だって、君は羊じゃないだろう?


 人として罪を償うべきじゃあないか。


 そんな意味を込めて、わたしたちは遠巻きに鳴き続けた。


 メェ、メェ……メェメェ、メェ…メェって。


 羊人間たちはKの呪いが怖かったんだろうな。

 気味の悪い呪いを、罪を認めた馬鹿に、押し付けてしまいたかった。


 そして何より。

 この狼を生贄にすれば、Kの呪いから逃れられるような気がしたんだと思う。


 でも、その考えは甘かった。

 思うに、いつもわたしたちは自分に甘いんだ。


 目の前で誰かがひどい目にあっても、自分だけは大丈夫だと思い込んでしまう。


 トランプの大富豪に革命ってあるでしょ。

 役の強さがひっくり返るやつ。


 あれと同じことが起きた。


 狼は弱く、羊は強くなったんだ。


 手首の傷が弱者の証になると。

 すでに手首を切っているやつらが、他人にもそれを強要するようになった。


 方法はひとつ、カッターを送りつけるんだ。

 送りつけられた側は、そのカッターが何の恨みで届いたかわからない。


 身の潔白を示そうとしても無駄だ。


 カッターには血がついている。


 誰かが手首を切るほど憎んでいるのだ、その分の罪は償わなければならない。

 当然、狼扱いされて猛烈にいじめられることになる。


 それは手首を切るまで続くし、切っても止まらない。

 新しい生贄の羊おもちゃ見つかるまで続くんだ。


 その仕組みをわかっているやつは、自分がいじめられそうになるとカッターを送りつけて、ありもしない罪を糾弾し始める。



 みんな理由なんてどうでもよかった。

 とにかく、おとしめることが重要だった。


 弱さが至上の逆転世界では、自分より強いものはすべて悪で、みんな、他人を引きずり下ろすことに躍起になっていた。


 最後の方ではかなり露骨に、目の前で手首を切らせたりしていたよ。


 あいつだけ幸せになるなんて許さない。

 みんなで不幸になろう。不幸にならなければならない。


 そんな歪な羊人間たちの結束があった。


 こうなると、もう誰も通報できなくなる。

 みんな加害者で、被害者だから事件を明るみに出したくないんだ。


 あのクラスに、見て見ぬ振りをしなかったやつはいない。


 というか、何もしなくても見てみぬ振りをした罪になるし。

 助けようとしても、悪人をかばった罪で手首を切ることになる。

 

 だから、何をしても無駄なんだ。

 潔白になりたかったら、自殺するしかない。


 重要なのは罪を犯したかどうかではなく。

 罪をやり過ごせるかどうかだった。


 無害な顔をして、羊みたいにメェメェ鳴く羊人間になること。

 馬鹿馬鹿しいことに、それが最も重要だった。


 だからなのだろう。

 明らかな自殺教唆や強要があっても、最後まで表沙汰にならなかった。


 学校としても、もうこれ以上の不祥事を世に出したくなかったんじゃないかな。

 担任の先生は見る影もないほど立派な羊人間になって、メェメェ鳴いていた。


 その目にはもう、何も映っちゃいなかったよ。


 誰もが見て見ぬ振りをすることにしたんだ。


 何も問題は起こっていない。

 いじめなんて存在しない。

 今日もクラスは平和なのだと。


 滴る血から目を逸し続けた。


 そして、それは成功した。

 羊人間たちは数多の血を流しながら3年生になった。


 毎年行われていたクラス替えによって散った羊人間たちは、特に問題を起こすこともなく、受験勉強に励んだ。


 互いを呪いあうことに躍起になって、勉学が疎かになっていたのだ。

 高校受験という目標が羊人間たちから時間を奪った。


 他人をいじめる暇がなくなると、羊人間たちはメェメェと数学の公式や古典の書き下しの話をするようになった。


 あれは、どんな呪いよりも恐ろしかったよ。

 なぜこんな形で終わるんだ?


 いじめられる側に問題があるとか、いじめる側に問題があるとか言われるけれど。


 本当はいじめられる側にもいじめる側にも「解決すべき問題」なんてなくて。


 ただ、暇でやることがなかっただけなんじゃないのか?


 受験勉強とか、部活動とか、恋愛とか、遊びとか、気になる本とかそういうものに熱中していただけで解決した問題だったんじゃないのか?


 そういえば、手首を切らずに済んだクラスメイトの大多数は部活動に熱心だった。


 まさか、そんなことのためにKは死んだのか?

 わたしたちが血を流した理由は、ただ暇だったからなのかよ。


 先生は辞めたよ。

 あんなことになって、続けられるわけないよね。


 思えば、先生は何も悪くなかった。

 ただ、先生としてクラスを導こうとしただけだ。


 もし、過去に戻れたとしても。

 わたしは羊みたいにメェメェ鳴いていることしかできないだろう。


 早い段階で全員見捨てて転校すればよかったのかもしれないけど、わたしには無理だ。


 部活動に入れあげて、崩壊していくクラスを無視し続けることもできないだろう。

 そういう冷徹さとか、強さみたいなものを、羊人間は持ち合わせていない。


 ねえ、作家先生。

 わたしはどうすればよかったのかな、どうするのが正解だったのかな。





 ふと見上げると、点滴が止まっている。

 このまましばらくすれば、圧力か何かの作用で血が逆流するだろう。


 そうして、腕に刺さった点滴の管が赤くなるのを何度も見てきた。


「言いたいことは作品で示す主義でね。書き上げたら見せるよ。」


「話してくれてありがとう。よい小説ができそうだ。」


 そう言って、作家は去って行った。

 わたしは後ろ姿を見送ると、ナースコールで看護婦さんを呼んで、点滴を換えてもらった。


 他人に話すと、心が楽になる。

 でも、それは一時だけのことだ。


 いつまでも過去に囚われてもいられない。

 わたしは中3で不登校になり、高校受験に失敗している。


 最終学歴は中卒だ。


 バイトをしたこともあるけど、うまくいかなかった。

 羊人間であるわたしは、人間社会にうまく適応できないのだ。


 自分の無力さをアピールするだけで、見過ごしてもらえるのは学校の中だけだ。

 本来、無力な羊は役立たずでしかない。


 弱さで気を引いて彼氏ができたこともあったけれど、長くは続かなかった。


 無力であり続けるとウザがられるし。

 無力であることを売りにすると、無力でなくなった時に捨てられる。


 嫌なことがあると手首を切る悪癖は治ることがなかった。


 わたしには何もない。


 負債だけがどんどん積み重なっていって、親に迷惑をかけながら、どんどん歳をとっていく。


 わたしには先がない。


 だから、一部の市販薬に向精神薬に含まれる成分が入っていると気づくと、それを大量に買って飲み干したりする。


 そうして、メェメェ鳴きながら自殺するんだ。


 いつもどおりに失敗し、病院に運ばれて、胃を洗浄され、点滴を打たれる。


 最近はこの繰り返しだ。


 あの作家はこのくだらない人生に意味を与えてくれるだろうか。

 わたしはそのうち死ぬだろうけど、生きていた証が残るのなら、心残りはない。


 うちの家族のことだ、引き取りを拒否して入院期間を引き伸ばしてくるに決まっている。あの作家がやってくるまで、ここでゆっくり待つことにしよう。


 


 それから一週間後、先に原稿が届くと。

 わたしはその内容に絶句し、冷や汗をかいた。


 作家は数日後にやってくるらしい。

 あのペテン師、なんてことをしてくれたんだ!


「どうでしょうか。」

「どうでしょうかじゃないよ! これ、本気で公開する気なの!」


 その10万文字ほどの小説には事件の全貌が詳細に書かれていた。


 登場人物はKも含めて全員実名だったし、細かい部分では日付まで克明に記されている。


 わたしへの取材だけでは、到底作れないリアリティだ。

 リアリティというより、事実そのものだった。


 明らかにわたし以外に取材を受けたやつがいる。


 語られたくもない過去が数え切れないほど書かれていた。

 他人の人生を容赦なく使い潰しているのだ。


 わたしは権利に詳しくないけれど、この小説が完全にアウトだということくらいはわかる。


「もちろん公開しますよ。そのために書いたのですから。」


 作家は平然としていた。

 わたしは、自分の中身をごっそりと食われているような気持ちになる。


 作家が獰猛な笑みを浮かべる。

 そのくせ、どこか穏やかさが残っていて不気味だ。


「人間はおもしろいですよね。すぐに無害な羊の振りをして、危機をやり過ごそうとする。この構造はとてもおもしろい。私が書くに値する題材だ。たとえば」


 ――4月20日、2年A組の教室でKを詰なじりましたね。


 そんなの、覚えてないよ。


 ――6月1日、体育でKを仲間はずれにしましたね。


 覚えているわけないだろ。そんな昔のこと。


 ――8月14日、Kにカッターを渡しましたね。


 知らない、覚えてないって言ってるだろ!


 特にメモを持っている様子はない、まさかすべて暗記しているのか。

 そういえば、取材を受けた時もメモをしていなかった。


 作家が輝く黄金を見るような目でわたしを見ている。

 口元が小さく「なるほど」と動いた。


 息が詰まる。


 わたしの反応を、小説に使うつもりなのだろう。

 何をしても、何をしなくても、人生を食い潰される。


 この男は虎だ。

 人間の姿をした、人食い虎だ。


 口を開く度にわたしの中身が食い荒らされていく。


「責めているわけではないのです。あれは仕方のないこと、悲しい事故でした。」


「しかし、小説は面白くなければなりません。より良質な小説のために必要なのです。」


 この虎は止まるつもりがない。

 面白い小説を書くためには何でもするだろう。


 わたしに送りつけた小説は初稿に過ぎない。


 こいつは人間の血肉を食らって、より完成された作品を作ろうとする。

 そんなものを書かれたら、わたしの中身が食い尽くされてしまう。


 学生時代に培つちかった無力な羊の振りは役に立たない。

 格好の餌食になるだけだ。


 それでもわたしはこの虎と、戦わなければならなかった。


 いじめに加担した加害者ではなく、ただの無害な羊であり続けるために、ここでこの虎に勝たなければならなかった。




 道徳や倫理を説き、良心に訴える。


「そんなことより、面白い小説を書くことの方が大切です。」


 法律や裁判をちらつかせる。


「裁判ですか! いいですね。あなたの収入では難しいでしょうが、ぜひ私からもお願いします。うまくご両親からお金を借りてください。争えば争うほど話題性は高まりますから!」


 命がけで呪う。


「まさか、そこまでしてくださるとは思っていませんでした。これは少し章の組み立てを変える必要がありそうです。あなたの命を無駄にはしません。最高に盛り上がるラストをお約束しますよ!」


 いつも思うのだけど、わたしの考えは甘いのだ。

 聞けばこの虎は、小説のために家族を使い潰しては捨てているらしい。


 とんでもないものに出会ってしまったものだ。


 そもそも、羊が虎に敵うわけがない。

 拒絶できるほどの気力もなかった。


 わたしはすべてを諦めて、虎にこの身を食わせることにした。



 隠していたこと。

 誰にも話さなかった自分の弱さや醜さ、卑怯なことを話した。


 虎はわたしをなじることもなく、目を輝かせて聞き入っている。


 わたしの血肉はそんなに美味いのだろうか。


 虎が言葉を返す度、心に牙が突き立ち、齧られていくのを感じる。

 わたしは自傷行為に耽ふけると、心がすっと楽になるのだけど、あれに近かった。


 虎の言葉は、手首を切った時より鮮烈に、わたしの心を抉えぐってくれる。

 大きく開いた傷から、8年ものの呪いが溢こぼれていた。


 もったいないとでも言いたげに溢こぼれた呪いを、虎がすする。


 忘れていたことを思い出す、言葉が跳ねる。

 この虎はどんな悪辣あくらつも否定しない。


 話したいことがたくさんある。


 そうして、虎はわたしの羊の部分をほとんどすべて食べてしまった。

 悪辣あくらつさやずるさ、醜さも、卑怯な過去も、みんな食べてしまった。


 最後に残った残りかすの小ささに驚く。

 それは小さいけれど大切なわたしで、虎はそこだけはけして食べようとしなかった。


 この虎は人間としては最低最悪のクズだし、どうしようもない破綻者で、たぶん犯罪者だけど、虎としては結構いい感じだった。


 関わりたくないけれど、本は気になる。


「ねぇ、作家先生。本ができたらまた読ませてよ。」

「もちろんだとも。」


 わたしの両腕はリストカットでズタズタだし、中卒だし、20も過ぎて後は老いていく一方だし、就労経験はアルバイトくらいだけれど。不思議と今すぐ死にたいとは思わなかった。


 読みたい本ができたのだ。

 それを読み終えるまでは、ひとまず生きていようと思う。

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羊人間 間野 ハルヒコ @manoharuhiko

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