第2話 クレイジーと犬殺し


〔クレイジー〕は踊りの師匠でもあった。つまり、日本舞踊の家元である。そういう変わった経歴のプロデューサーはかつて業界にはごろごろいた(今では少ない、希少種、いや絶滅危惧種だ)。母方に白系ロシア人の血が流れていると噂され、色白で巨躯。身長は185センチぐらいあって、体重は百キロを超えていた。あの頃彼は、五十歳ぐらいだったと記憶している。瞳は鳶色で、鼻は高かったがあらぬ方向にひしゃげていた。ボクシングか、ラグビーでやられたのだと他のプロデューサーは噂していた。とにかくそのように、経歴も容貌も怪異な男だった。その怪人が、パナフレックスというエサを持って来て、連日僕に迫るのである。

「あなた、もっと上を目指すんだったら、パナフレックスぐらいは経験しといた方がいいんじゃない?」と。そして、「あなたがやらなきゃ誰かがやるだけのことですよ」と気味が悪いほどの猫なで声でこともなげに言う。


僕は遂に折れた。悪魔に魂を売ったのだ。


原発推進に携わる連中は皆どこかでこういう「悪魔に魂を売る」ような葛藤を経験してきているに違いない。何しろ、「トイレ無きマンション」なのだ。核燃料の最終処理の仕方が未だに決まってないのである。愚かな人類の象徴だ。

後世、人類に取って代わる知的生命体が地球に誕生したとしよう。彼らは原発の残骸を見て(何で昔の奴等はこんな危険なモノを作りそれに依存していたんだろう?)と疑問に思うに違いない。それ程のしろものなのだ。まさに悪魔の発明である。


そう。悪魔は姿形を巧みに変えて、歴史上のあちこちにしかとその存在を刻んできたのだ。


「今度、パナで撮るんだって? すごいじゃないか。よかったじゃないか」

スタッフルームで露骨に羨望のオーラを発散させながら話しかけて来たのは〔犬殺し〕と陰であだ名されている先輩ディレクターだった。学生運動の挫折をずっと引きずっており(と本人は主張していた)その名残というか面影を残すためというか長髪にジーンズというファッションに固執していた。

〔犬殺し〕という異名はCMの撮影中実際に子犬を殺してしまったことに由来する。

つまらないカットだったが彼はなかなかオーケーを出さずテイクを重ね遂に子犬は翌日、過労とストレスが原因で死んだのである。

それが「人や動物に優しい街を」というキャッチフレーズの公共広告だったのはおそろしい皮肉だった。丁度その日二度めの離婚の調停中だった彼はそのことで苛々していたらしい。思えば結婚が趣味のような男だった。その後も何度か同様の過ちを繰り返している。だからといって撮影中の子犬に当たるなんて最低のゲス野郎だ。


そしてその時〔犬殺し〕のAD即ち助監督を努めていたのが僕だった。

テイクを重ねるにつれ子犬が弱ってきているのは分かったが、そのことをディレクターに報告すべきタイミングを誤った。

(おれも同罪だ)

そのことでその後暫く罪の意識に苛まれるようになった。その上、

「これ以上やると子犬が死んでしまいます、止めてください」

と〔犬殺し〕ディレクターに注進に及んだ時奴に一発殴られている。その時の奴の台詞が忘れもしない、

「バカヤロー、いい画を撮るためなんだよ! そのためなら犬ころの一匹や二匹死んだっていいんだ」

というものだった。

やった方は忘れていようがやられた方は忘れない。世の中そんなものだ。


とにかく。露骨に羨望の言葉を投げかけられ僕は出鼻を挫かれた感じだった。

〔犬殺し〕には、

「原発推進のCMの演出を引き受けるべきか、断るべきか」

相談に出かけたのであった。

何しろ当時の彼は社員ディレクターとしての先輩であり直属の上司だったのだ。

社員ディレクターは冷遇されていた。予算が潤沢にある、35ミリフィルムで撮影するようなビッグクライアントのCMはフリーランスの大物ディレクターに回され、社員ディレクターに回ってくるのは低予算の、ビデオカメラでちゃらっと回すような、どうでもいいような仕事ばかりだった。そのためか社員ディレクターの身辺には何となく敗北感というかやるせなさというかやりきれない気持ちというか負のオーラが漂っていた。当然の如く酒を飲むと荒れた。大荒れに荒れた。


とはいえ、あれ程嫌な思いをしたにも関わらず僕が〔犬殺し〕と付かず離れずの関係にあったのは酒のせいだった。

僕はそもそも酒を飲むために、或いは酒代を稼ぐために就職したようなものである。そして入ってみるとそこは酒飲みには天国のような会社だった。オフィスの冷蔵庫は常に酒で満たされ、夕方五時頃になると必ず社内の何処かで飲み会が始まった。そこから盛り上がって何名かが二次会と称し街へ流れて行くこともあれば、果てしなく不毛な議論が続きそのまま終電の時刻を迎えてしまうこともあった。

しかしながらとにかく会社に行きさえすれば酒にありつけた。その経費はプロデューサーのポケットマネーで賄われ、新人の頃の僕などは毎日ただで酒が飲めた。それはとても有り難いことだった。


その輪の中に絶対に加わらないプロデューサーが一人いた。〔クレイジー〕である。

思えば彼は孤高の人だった。


僕が〔犬殺し〕に相談を持ちかけた時もやはり酒が入っていた。会社の中である。〔企画演出室〕という小部屋を〔犬殺し〕は会社から勝ち取っていた。社員ディレクターは現場が無い時はそこに詰めていたのである。広さは十畳ほどで、デスクは四つあった。そこで酒を飲んでいた訳だ。

「クレイジーの仕事か」

と〔犬殺し〕は言った。「そういうところは、流石だな」

〔犬殺し〕は缶ビールを飲みながらデスクで煙草をふかしていた。

驚くべきことに当時はそんな事が可能だったのだ。

「原発だろうと何だろうといいじゃないか。パナフレックスが回せるなら。あのカメラはいいぞ」

というと〔犬殺し〕は遥か遠くを眺めるような目付きでビールをぐびりと飲んだ。「俺もロスで一度回したことがある」

「ロスで。ハリウッドですか」

「まあ、そんなところだ」

こんな奴に相談したのが間違いだった、とその時僕は気が付いた。この男の考えているのは自分のことだけだ。自分を中心に世界が回っているのだ、常に。しかし、念のために言うべきことは言っておこう、僕はそう決意した。

「この仕事断ろうかと思っているんですが」

と僕が言うと、

「バカだなあ」

と蔑むような目で〔犬殺し〕は僕を見た。「ひょっとして君、青臭い正義感でそう言ってる訳? 原発絶対反対、みたいな感じで」

「まあ……そうですけど」

「じゃあ、電気を使わずに生活してみろよ」

と〔犬殺し〕は冷ややかに言った。「そんなことが出来る筈が無い。パソコンだってこの部屋の電気だってみーんな原発の電気だ。それを使いながら、原発の電気による快適な生活を享受しながら、原発反対を叫ぶなんて矛盾しているとは思わないのか?」

〔犬殺し〕は学生運動の闘士だっただけに弁が立つ。理詰めで人を追い詰めることは得意だった。と同時に奴の言うことは、原発推進派の用いるロジックと同じである。

「しかし」

「しかしもクソもあるか。この仕事を断ることは許さない。やれ。これは業務命令だ」

遂に〔犬殺し〕は強権を発動した。

「断ったらクビってことですか」

「当たり前だろ。当たりマエダのクラッカーだよ」

最後は得意の親父ギャクである。「それともまた、制作進行に戻るか? 雑巾掛けからやり直すか?」

立場の弱い者に強権で迫る。今でいうパワハラである。その上僕にはそれ程の根性がないことは見抜かれていた。

「それにな」

〔犬殺し〕はたたみかけるように、「カメラマンはあのTさんじゃないか。あんないいカメラマンと仕事が出来る可能性は滅多にないぞ。学ぶべきことも多い筈だ。そんないい機会を棒に振るってのか?」と優しいトーンの低い声で囁いた。

カメラマンTは当時当代きっての売れっ子ムービーカメラマンで通常なら僕のような無名のちんぴらディレクターと組んで仕事をするなどあり得ないことだった。僕以外のスタッフは全て広告代理店のクリエィティブディレクターからの指名だった。一流どころがずらりと揃っていた。

クレイジーはただ「へいへい」と御用聞きのように広告代理店担当者のリクエストに従いカメラマンのことを「先生」と呼びスケジュール調整に奔走していた。何しろ「お客様第一」なのだ。「たいへんだたいへんだ」とボヤきながらも嬉々としていた。

Tカメラマンと仕事することは当時の僕にとってたいへんな魅力だった。目の前に吊るされた魅惑の餌だった。後に「演出とは、盗むことです」と僕に良いディレクターになる為の秘訣を教えてくれたのは彼だった。「その為には若い時に食わず嫌いをしないこと。なるたけ一流の人と一緒に仕事をすることです」と。

生憎僕はCMの世界で「一流」と呼ばれる存在にはなれなかった。「一流」と呼ばれる人々と接して何かを盗み成長する以前にそもそも細かいことに向いていなかったのだ。今にして思えばCMディレクターとしては大雑把で鈍感すぎた。何しろ自分が鈍感であることになかなか気付かなかったほど鈍感なのだ。どうしようもない。ただしこの鈍感さはドキュメンタリーのディレクターにとってはある程度必要なのである。


僕は思い切って最初の打ち合わせの時カメラマンTに聞いてみた。「これ原発のCMなんですけど気になりませんか?」と。

「ぜんぜん」とカメラマンTは即答した。「だって僕が断ったところで他の誰かに仕事が回るだけだし」

確かに言われてみればそうだった。売れっ子のカメラマンTにしてそうなのだから無名の僕の代わりなどいくらでもいるわけだ。それに僕がこの仕事を断ったところで世界の情勢に影響はまったくないのだ。

「それにね」とカメラマンの立川は続けた。広告代理店の担当者には聞こえない様に小さな声で。「こんなCM流したところで大勢に影響はないと思うな。正義は勝つ、なんだよ結局」

あれは第一回のオールスタッフミーティングの席だった。僕は驚いて名カメラマンの顔をまじまじと見てしまった。彼は僕よりかなり歳上で当時五十歳をすこし過ぎた頃だったと思う。

「というと?」僕は名カメラマンの真意を尋ねずにはいられなかった。「どういうことですか?」

カメラマンTは何かを確かめるように僕の目を見つめた。

すべてを見透かすような澄んだ眼差しだった。

「残念ながらスタッフの中にはこの内容に賛成している奴は一人もいない」と名カメラマンは静かな口調で答えた。「もっともおたくの会社の頭のいかれたプロデューサーだけはどうだか分からないけどね」

僕はギョッとして広告代理店の営業担当と話し込んでいるクレイジーの後ろ姿に目をやった。「あの男の渾名がクレイジーだって知っていたんですか?」

「え」カメラマンTは目を丸くした。そのことは知らなかったようだった。「そうなんだ」

「そうなんですよ」

僕が何故プロデューサーが〔クレイジー〕と呼ばれているのかを説明するとカメラマンTはハハハと笑った。「参ったな、こりゃ」

その後はちょっと打ち解けて話ができた。

「いいですかあなたは若い」とカメラマンTは言った。「ディレクターは経験です。とにかく場数を踏むことですよ」

僕は素直に頷いた。彼が真摯に話してくれていることが分かったからだ。偉い人ほど腰が低いというのは本当だ。若いからといって、或いは経験不足だからといって、若者をバカにしたりはしないのだ。

「それに、見たところ」と続けてカメラマンTその先を言うのを躊躇った。「これは言っていいのかな」

「何でしょう」僕はすこし緊張した。「言ってくださいそこまで言って話さないのは酷ですよ」

「そう。じゃあ言うよ。僕の見たところ、あなたはCMには向いてない」

ガーン。それは衝撃の発言だった。「なぜ。どうしてですか?」思わず理由を聞かずにはいられなかった。

カメラマンTはすこし間を置くと、「CMの演出の上を目指すような連中はそんなことを質問したりはしませんよ」と微笑んだ。「これ程度の仕事は踏み台です」

「そうなんだ……」

「それに我々フリーにとっては何といってもカネです」カメラマンTは立川椅子から立ち上がった。「原発に反対するならとりあえずこの仕事が終わってギャラが振り込まれてから反対しますよ」

カメラマンTは僕の肩を軽くポンと叩いて去りかけたが立ち止まった。「監督は社員ディレクターだから辛いでしょうが。立場は判ります」

「はあ……」

「僕も技術会社の社員カメラマンだったことがあるからわかりますよその辺は」

「そうなんですか……」

「まあどうしても原発が嫌だというなら降りるほかありませんね。あなたの人生だ。僕にはそこまで口を挟む筋合いは無い」

「そうですよね……」

物事を決める、決断するのがディレクターの仕事である。だからディレクターというのだ。しかし僕はまだ迷っていた。迷いながらもこの仕事を引き受ける方向に気持ちは傾きつつあった。カメラマンTの影響によって。出会いは人生を変える。これは間違いない。(この人の仕事ぶりを近くで見てみたい)と思ったのだ。


こうして僕は原発推進の仕事を引き受けることにした。


その夜僕は珍しく〔クレイジー〕から飲みに誘われた。

出かけたのは赤坂の路地裏にある小さな居酒屋だった。屋号を〔せき〕という。案の定主人は関という苗字だった。店を開いたのは前の東京オリンピック直前だという。なんとそれは僕が生まれた年だった。

「へえ、するとこの店おれと同い年ですね」

僕がいうと主人は喜んだ。「そりゃあ珍しい。よーし生ビール一杯サービスしましょう」と言ってくれた。

「当時は赤坂芸者が大挙して通ってくれたものです」と昔をしみじみ思い出すように主人は言った。その通りはかつて料亭がずらりと立ち並んでいたという。

「ふーんそうなんだ……」カウンター席に赤坂芸者がずらりと並ぶさまを僕は想像した。「その時代に、ちょっと来てみたかったですね」


店の名物は、焼酎の胡瓜割りである。生の焼酎に細かく千切りした胡瓜と氷をぶち込み上からミネラルウォーターを注ぎ入れる。するとかなりスッキリとした味の飲み物になるのだ。スッキリし過ぎていてついつい飲み過ぎるのが玉に瑕である。寒い冬にはお湯割りにするとこれがまたいけるのだった。

「韓国の人から教えてもらったんだけどね。ほらこの辺は昔から韓国の人が多いから」と店の主人は言った。「向こうでは眞露でこれをやるらしいんですけどね」

確かに赤坂は伝統的に朝鮮半島から来た人たちが多い街であった。

誰かに会うと人は何かしらの影響を受ける。

「あなたは負けちゃダメだよ」珍しく焼酎の胡瓜割りで顔を真っ赤にした〔クレイジー〕が言った。基本的には下戸なのだ。そんな男が洋一を酒の席に誘ったのには理由があった。

「あの男は育ちが悪い奴なんだ」クレイジーが語ったのは俳優Fのことだった。「両親が自殺してしまい、親戚の家に引き取られ随分と虐待を受けたらしい」

「え、両親は心中ですか」

「それがどうも違うんだよ。ワンバイワン、ステップバイステップだった。最初に父親が首を括りその後暫くして母親が電車に飛び込んだ」

「うわ、それは」

俳優Fの暗い目付きにはそういう悲劇的なバックグラウンドがあったのだ。

「少し大きくなると、彼はアルバイトをして、その金で空手を習い始めたんだ。義理の親には内緒でね」

俳優Fがアクションに長けていたのはそのためだ。なるほど空手の達人だったのだ。

「義理の親というのが、酷い人たちで、幼い藤倉さんを寒空の下に立たせては、冷たい水を頭からぶっかけてたりしてたらしい」〔クレイジー〕は見て来たように俳優Fの義理の両親による児童虐待を語った。「服も全く買い与えず着た切り雀で臭い子供だった」

「それじゃあ当然学校でも虐めにあいますよね」

「その通りだよ。わかってるじゃないか、カントク」

クレイジーは片手で僕の肩を抱いた。酔っぱらってきたようである。そして続けた。「彼はひたすら耐えて待った。身体が大きくなることを。そして空手の腕前が上達することを」

なるほど、寡黙でストイックな俳優Fの佇まいはその頃形成されたに違いない。ある意味あのぶっきらぼうは素であって地なんだな、と僕は腑に落ちた

「そして中学を卒業する頃、彼は義理の両親を叩きのめした。学校で彼を虐めていた連中もね」

「それを聞くと何だかスカッとしますね」

「だろ? その頃になると彼の身長はもう百八十センチを超えていたんだ。空手の腕前も黒帯になっていた」

ひょっとして彼の人生はそこで終わってしまったのではないか。そんなことを僕はふと思った。虐待した義理の親や虐めに加わった同年代の連中を叩きのめしたことで人生の目的を達成してしまったのではないだろうか。

「義理の親を恫喝し、ある程度まとまった額の金をせしめ彼は家を出ました」

「当然でしょうね流れとしては」

「普通ならヤクザか何かになるところです。でも彼は踏み止まった。何故かね」

そして定時制高校に通い飲食店でアルバイトをしているところを芸能界にスカウトされたのだと〔クレイジー〕は話を締め括った。

「けっこう臆病な人なのかもしれません。自分の弱さを隠す為に強がっているような。そんな感じなのかもしれない、そのことを意識してカントクはあの役者を演出する必要があります」

〔クレイジー〕にしては理路整然とした話ぶりだった。僕は素直にその話に耳を傾けた。

(この人を誤解していたのかもしれない)

赤坂の夜はこうして更けていった。

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