開幕 〜3年前の要目〜

 3年前のあの日の昼、要目とループスはいつも通り屋敷の庭の池の傍でしゃべっていた。


「今日はね、おかあさんがチョコレートケーキを焼いてくれるんだ」


 要目の家では年に一度、パーティを開く。確かその日は「結婚記念日」と言い、要目は緋目が焼いてくれるチョコレートケーキを楽しみにしていた。


「へえ、いいね。おれも食べたいな、チョコレートケーキ」

「ダメ。『今日は親子水入らずで過ごす』の」


 後半の言葉は両親から聞いた言葉を暗唱したものだ。難しい言葉が使えると何となくかっこいい気がしたから言っただけだった。


「じゃあ、今度一緒に食べたいな」

「うん。今度ならいいよ」


 そう約束をしてすぐにループスと別れた。今度ループスと一緒にチョコレートケーキを食べることを楽しみにしながら。



 そしてあの日の夜。

 奏夜が屋敷で働く使用人を早く家に帰し、家族三人だけで食卓を囲んでいた。食卓には豪華な食事がテーブルの端から端まで並べられており、何から食べようか迷う程だった。


「緋目さん。チョコレートケーキはまだ?」


 バケットにチーズをつけていた奏夜が訊くと、緋目はグラタンを取り分けていた手を止めて答えた。


「まだよ。チョコレートケーキは食後のデザート」

「えー」


 奏夜は要目にチーズをつけたバケットを渡して言う。黄金色にとろけたチーズがのったバゲットは、かじるとチーズの風味が広がっておいしい。


「緋目さんのチョコレートケーキ、今食べたいよな、要目」

「うん」


 要目もご飯より早くデザートが食べたかった。だが、緋目は必ずと言っていい程、デザートは食後に出していた。


「緋目さんのご飯はおいしすぎるんだ。食べ過ぎてデザートが入らなくなる」

「あら? ならご飯を控えたらいいのでは?」

「何を言う。ご飯を控えるなんて考えられない」


 毎年この日になると奏夜も緋目も嬉しそうな顔をする。特にこの日は笑顔で溢れている。だから要目も自然と笑顔になっていた。

 嬉しくて、幸せで、ずっとこの時間が続いてほしかった。


 チリンチリン


 突然、呼び鈴が鳴り響く。奏夜が首を傾げながら立ち上がる。


「おかしいな。今日はもう誰も来る予定はないんだが。忘れ物かな?」


 そう言って奏夜は部屋を出て行った。

 要目は奏夜のためにチーズがのったバケットを作る。バケットを手に取りチーズをかけたがチーズをテーブルにこぼしてしまった。


「おかあさん……」

「ん?」


 チーズをこぼしたテーブルを見て緋目は要目の傍に寄る。緋目は要目の両手を手に取る。


「火傷していない? 要目」

「……うん」

 火傷はしていない。だが、要目にとっては失敗したことと、せっかく緋目が用意してくれたチーズをこぼしたことがショックだった。


「こんなことでぐずらなくていいの。拭けばいいわ」


 緋目は布巾でこぼしたチーズを拭く。


「奏夜さんもこんなことで怒らないから、また作ってごらん。喜ぶわよ」


 緋目の言葉を信じてもう一度挑戦しようとした時、緋目はハッと顔を上げ、要目の右手首を掴んだ。

 要目はびっくりして緋目を見上げる。

 緋色の目は大きく見開かれていた。


「要目、お母さんについてきなさい」


 緋目の口調が冷たくなった。さっきまでとは全く違う。緋目の豹変ぶりが怖くて泣きかけていた要目を緋目が宥める。

「大丈夫よ。お母さんが一緒だから」


 緋目は要目の腕を引き、部屋の奥に備えられていた本棚を横にずらす。本棚は隠し扉になっており、階段が先に続いていた。緋目は要目の手を掴みながらその中に入り、本棚を元に戻した。

 暗闇の中、階段をひたすら降りていく。


「おかあさん……おとうさんは?」

「奏夜さんは後で来るから。今はお母さんと一緒に逃げることを」


 突如、緋目が立ち止まる。そして要目を腕で背中に隠した。

 前方から灯りと足音が近づいている。


「あら、ほんとにいた」


 女の声と同時に灯りが緋目の顔を照らす。緋目は左手で要目の肩を掴む。


「お願い、どいて。どかないと」

 緋目はズボンのポケットから小型の拳銃を取り出し、発砲する。銃声は何発も続いたが、すぐにカチカチと弾切れを告げた。


「なんで?」


 緋目の手から拳銃が落ち、しゃがみこんで要目を抱きかかえる。


「お願い! 私はどうなってもいい。この子だけは! この子だけは!」

「ダメよ。お母さん」


 足音が更に近づいていく。要目には近づく足が履いている真っ赤なヒールが悪魔の唇に見えた。


「なんせアタシ達、アナタ達家族全員が目的なんだから」


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