第186話 旅行と恋と絶交と②
「……美衣子、着いたわよ」
「……え?」
気づけば美衣子は灯里に体を揺られていた。ゆっくりと目を開けて、外を見ると、自然豊かな山の方に来ていた。駅の周りは栄えているみたいだけど、少し移動したら一気に空気がおいしくなりそうな場所だった。
「気づいたら美衣子が寝てたから、びっくりしたわ」
灯里がクスクスと笑いながら立ち上がる。
「さ、行きましょう」
灯里に手を引っ張られて、立ち上がらされた。そのまま手を握りながら電車の外に出る。
外に出ると、電車に乗る前よりも随分と涼しく感じられた。8月なのに快適だ。そのせいか、空気も普段吸っているものよりも新鮮に感じられた。
「なんだかデートみたいね」
何も考えずに、思わず言ってしまった言葉に自分で緊張してしまった。灯里もギュッと握る力を強めてくる。
どうしてだろうか、灯里と手を繋ぐことなんて今までだって何度もあったのに、今日は特別緊張してしまっていた。普段と違う場所に来たから、そんな感情が思い起こされてしまうのだろうか。
「嬉しいわ、美衣子。そうね、今日と明日は素敵なデートにしましょうね」
平常運転の灯里なのに、美衣子の方はとても緊張してしまっていた。手汗が出てしまっていそうで、一緒に手を繋いでいるのも恥ずかしかった。
それから、美衣子と灯里は蕎麦を食べたり、滝を見たり、パワースポットに行ったり、楽しい時間を過ごした。
「楽しかったわね」
美衣子が笑いかけると、横を歩いている灯里が微笑み返した。
「まだ今日は終わってないわよ。一番のお楽しみは湖なんだから」
灯里の言っていた、満月が反射する湖。子どもの頃から思い出に残っている場所だから、きっととても綺麗なのだろうな、と思い楽しみにしていた。一度旅館に入ってから、夜を待つ。
「ねえ、美衣子。温泉に行きましょうよ」
「そうね」
灯里について、大浴場へと向かう。
「ここの露天風呂、すっごく良い景色なのよ」
灯里は楽しそうに美衣子の手を引っ張っていた。灯里の柔らかい手に引っぱられる。夏の暑い日に入る露天風呂なのに、高原の心地よさだったり、湯加減のちょうど良いお湯のおかげだったり、快適だった。そういう記憶はかろうじてある。
だけど、それよりも美衣子は緊張感が一番記憶に残っていた。何も纏わずに灯里と一緒にお風呂に入ったのだから。
灯里のスラリとした、芸術品みたいな体。胸が少し小ぶりだけど、そのおかげで痩せ型の体はバランスが取れていた。
「気持ち良いわね」
お湯に浸かりながら、また灯里は美衣子の手を握ってきた。素肌のままの灯里が、美衣子に身をくっつけてきた。
そうね、と相槌を打つ声に緊張感が溢れていないか気をつけた。少しでも油断したら甘い声になってしまいそうだった。恋愛感情を必死に否定したいのに、灯里と一緒にいると、どんどん否定ができなくなっていってしまう。
食事を済ませて、湖畔に行く時には、やっぱりデート気分になってしまっていたことは否めなかった。
外は思ったよりも暗くて少し怖かったけれど、灯里と一緒に綺麗な景色を見にいける期待が上回って、そんなネガティブな感情はすぐに吹き飛んだ。
「楽しみだわ」
今度は美衣子の方から自然に手を出してしまった。
「え? 美衣子?」
今までずっと灯里のほうから手を差し出していたのに、珍しく美衣子が手を差し出したものだから灯里が驚いていた。
「あっ、えっと……」
美衣子がなんとか言い訳を考えるよりも先に灯里が微笑む。
「嬉しいわ。美衣子への愛がやっと通じたのかしら?」
冗談めかして言ってくれているけれど、認めたくない本心を貫かれているみたいで笑顔が引き攣ってしまっていた。
「や、やめてよね。わたしは灯里のことなんて好きじゃないんだから」
「面と向かって言われると傷つくわね」
灯里が苦笑いをしていた。
「れ、恋愛感情とか無いっていう意味よ! 友達としてはちゃんと好きだから……」
「わかってるわよ。でも、そこまで真面目な調子で言われちゃったら反応に困っちゃうわね。ま、そんな美衣子のこともわたしは大好きだけどね」
そりゃどーも、とできるだけ心のこもっていないような言い方はしたけれど、実際のところとても緊張してしまっていた。大好きと言ってくれたことに、ときめいてしまっていた。
月の明かりと間隔の広い街灯だけを頼りに歩いていく。道はあるけれど、車道と高さが変わらない道だから気をつけなければならない。
薄暗い道を歩くために触れている灯里の手が随分と優しくて、温かい。2人で静かに歩いて、湖畔へと向かっていった。
虫の音と時々通る車の音くらいしかしない静かな空間は、まるで世界で灯里と2人だけになってしまったような感覚に陥ってしまう。
このまま気づいたら灯里と2人だけしか存在しない世界線に移動していたとしても、それならそれで嬉しいかもしれない、なんて思いながら歩き続けた。
「ねえ、美衣子」
「どうしたのよ?」
「クリスマスも一緒に旅行に行きましょうよ」
「そんな先の話しないでよね。灯里に彼氏ができてるかもしれないじゃないのよ」
「作らないわよ」
「先の話だし、わからないんじゃない?」
「ううん、作らないわ。作るわけないじゃない」
「何よ、その確信」
美衣子が笑ってから続けた。
「まあ、そこまで言うんなら、良いわよ。旅行楽しそうだし」
「ありがとう、美衣子」
灯里が嬉しそうな声で喜んでいた。それから、また静かに15分ほど歩いただろうか。緊張していて時間の感覚がイマイチわからなかった。湖は、思ったよりも近くて遠い場所だった。
「大きな湖ね」
美衣子が辺りをぐるりと見回した。奥まで闇に浸っている湖。綺麗だけど、灯里の言っているような月の反射はない。
「雲に隠れちゃってるみたいだわ……」
曇天というわけではないけれど、空にはいくらか雲がかかっていた。今もちょうど月に雲がかかってしまっていた。
「さっきまで晴れてたし、まだ晴れるわよ。もうちょっと待ちましょう」
美衣子の声を聞いて、灯里もそうね、と頷いた。2人で草の生えた地面に座って、月を待つ。
「ねえ、美衣子はわたしのことどう思ってる?」
「どうって?」
突然の質問に背筋を正してしまった。
「いつも無理やり仲良くしてもらってるみたいで悪いから、嫌われてたらどうしようかって思って……」
「あんたでもそんなこと思うのね」
美衣子が苦笑した。
「なんだか強引に美衣子のこと連れ回してるみたいで」
「自覚はあったのね」
「わたしもそのくらいの客観視はできるわ」
そう、と美衣子が頷いてから、わざとイタズラっぽくはぐらかした。
「わたしが灯里のことどう思ってるかはあなたの想像に任せるわ」
「なによ、それ。嫌ってる可能性もあるみたいじゃないの」
灯里がクスクスと笑う。嫌ってるわけないじゃない、と否定しようと思ったけれど、それより先に灯里の意識は別の方に向かっていたから、美衣子はそれ以上は続けなかった。
「美衣子、見て!」
灯里が立ち上がって、慌てて美衣子の手を引っ張った。美衣子も、灯里の言わんとすることはわかった。
「綺麗……」
思わず口から漏れた。湖に反射した月は強い光を発していて、まるで水中にあるみたいに近く見える。
幻想的な景色は非日常的で、まるで御伽噺の世界にでもやってきたみたいだった。月の中からお姫様が出てきても、きっとそれが普通のことなのだと受け入れることができそうなくらい綺麗な景色だった。
「これが灯里の見せたかった景色なのね、嬉しいわ」
美衣子が湖のほうを見ながら、微笑んだ。
「喜んでもらえたかしら?」
「当たり前よ! すっごく素敵だわ」
美衣子が無邪気な子どもみたいに湖に駆け寄った。明らかにいつもよりも感情は動きやすくなっていた。もっと近くで見てみたかった。慌てて湖に近づいてみると、暗かったからか、思わず足を絡ませてしまった。
わっ、と声を出しながら、その場に転んでしまう。
「ちょ、ちょっと、美衣子、大丈夫?」
大丈夫よ、と少し気まずい声で返した。
もうっ、と灯里が呆れたように微笑みながら、美衣子の方に手を差し出してくれた。
「ありが……」
美衣子の声が止まった。それ以上声が出せなかった。美衣子の心が一瞬とても大きく跳ね上がってしまったような気になった。口から心臓がでてもおかしくないくらい、大きく跳ねたように思えた。
美衣子の方に屈んで手を差し出してくれる灯里があまりにも綺麗で何も考えられなくなってしまった。
「綺麗……」
ぼんやりとしたまま、小さな声で呟いてしまった。月に反射した灯里が、まるで同じ世界にいる子じゃないみたいに感じてしまう。
美衣子は明確に、灯里に対して恋愛感情を持ってしまったのだ。その事実を自分の中で強引に打ち消すには、あまりにも灯里への感情は強すぎた。
「どうかしたの?」
灯里が手を差し出してくれたまま、首を傾げた。グッと手を近づけてきてくれたのに、その手を思わず叩いてしまった。
「美衣子……?」
不安そうな声を出した灯里の方を見ることもできずに。美衣子が立ち上がった。
「そ、そろそろ帰りましょうよ。薄着だから冷えてきちゃったわ」
「え、ええ」
灯里が頷いてから、美衣子についてくる。帰りは早足の美衣子の少し後ろから、灯里が不安そうについてきていた。
「ねえ、美衣子。わたし何か変なことしちゃったかしら?」
「何もしてないわ」
美衣子が素っ気なく答えた。2人で泊まりに来たというのに、その日は旅館に戻ってからは、すぐに眠ってしまった。その後の思い出をほとんど作ることができずに帰った気がする。
恋にきちんと向き合えば良い方に迎えたかもしれなかったのに、美衣子はそれはできなかった。灯里への好きの感情から逃げることしかできなかった。
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