第178話 遅めの帰宅③
茉那の家では、一応住み込みのお手伝いさんという名目で住まわせてもらっていたから、料理を作ること自体はそこまで久しぶりではなかった。
「さすがにあんなめちゃくちゃな生活してたら心配になっちゃうわよ……。せめてご飯だけでも良いものを食べた方がいいわ」
いくら喧嘩中とはいえ、毎日遅くまで働いている灯里が食生活まで乱れさせていたら体を壊してしまいかねない。食事くらいは良いものを食べておいた方が良い。
それに、無償で住まわせてもらっているだけだと少し後ろめたいし、お手製料理くらい作れれば、そういう後ろめたい感情も少なくなるだろうから。まあ灯里のお金で食材は買うからあんまり自慢できることではないけれど……。
灯里が帰ってくる時間は夜遅いから、あまりカロリーの高いものはやめた方が良さそう。灯里のことだから、きっと真夜中に山盛りの揚げ物を作ったって美衣子が手作りをしたら笑顔で全部食べてくれるだろうけれど、だからこそメニューは慎重に考えなければならない。
サラダ多め、肉少なめの冷しゃぶサラダでも作っておこうかなと思った。それならさっぱりしていて、胃が疲れていても食べやすいし、お肉も野菜も取れて、元気も出るし、栄養もあるはず。
さっさと材料を買って、少し遅い時間に作り始める。21時くらいから調理を始めたら灯里が帰ってくる時間にちょうどよくなるのだろうか。美衣子もかなりお腹が空いてしまっているから、そんな状況で調理を始めると、お腹の音が何度も鳴ってしまった。
「さあ、できたわ」
盛り付けて、冷蔵庫に入れる。あとは灯里が帰ってくるのを待つだけだ。
実際に食べてもらう前だけど、灯里が料理を食べた反応はなんとなく想像がついた。
きっと「美衣子、とっても美味しいわ」と言って綺麗な笑みを浮かべるに違いない。喜怒哀楽の感情で言うと、溢れんばかりの喜。
きっと灯里は、美衣子が泥団子を盛りつけたって美味しいと言ってくれる。それはそれで、美衣子の食事をまともに味わってくれていないのでは……、と思って、自分で自分の考えに苦笑していた。
まあ、実際の灯里の反応はまだ見ていないから、本当にそんな反応をするとは限らないのだけれど。なんせ、長い間疎遠だったわけだし、その間にかなり優秀な社会人になっているようだし、もう高級志向で舌が肥えてしまっていたりするのかも。
けど、カップ麺を食べていたってことは、案外リーズナブルなものばかり食べているのだろうか。待っている間暇だったから、そんなことをいろいろ考えているうちに、灯里が家に帰ってきた。
「ただいま、美衣子」
返事が返ってくることなんて期待していないような感情の薄い声でダイニングに入ってくる。美衣子が冷蔵庫から出しておいた冷しゃぶを灯里の席に置いておいた。
「おかえりなさい」とこの家に来てから初めて美衣子が返事をする。その瞬間、灯里の口元が緩んだ。そして、机の上に視線を向けてから、呟く。
「ねえ、これって……」
「作ったのよ。家主に栄養失調で倒れられて、家賃滞納でもされてしまったら面倒でしょ?」
手に持っていたスーツジャケットをその場に投げ捨ててから、灯里が急いでダイニングの席についた。そして、さっと手を合わせてから、箸を持った。
「手くらい洗いなさいよね……」と呆れる美衣子の声が耳に入っていないみたいに、夢でもみているようなぼんやりした様子で口を開いた。
「ねえ、これ美衣子が作ってくれたの……?」
「さっきも言った通り、あんたが栄養失調で倒れたら、わたしが困るから作っただけよ。別にあんたのために作ったわけじゃないから」
美衣子が話している間に、灯里は勢いよくサラダと豚肉を口に入れた。まるで、1週間ほど何も食べることができなくて、久しぶりに食事を口にしたみたいに。お上品な灯里らしからぬ雑な食べ方。昨日まではもっとゆっくりと食べていたのに。
きっと美衣子の前だけで見せる、油断した姿なのだろう。そういうところは、学生時代から変わらないな、と思う。この後は満面の笑みになるのも予想はついていた。
それなのに、灯里は予想に反して、泣き出した。ポタポタと、机の上に涙が落ちていくから、美衣子は慌てた。
「え? ちょっと、どうしたのよ!」
静かに泣き出したわけではなく、声を上げて泣き出したから、困惑してしまう。一度お箸を置いてから、手のひらで目を擦って、涙を拭っているのだけれど、拭っても拭ってもまた次から次へと涙が溢れていた。
「ねえ、だから、どうしたのよ!」
「ごめんなさい、違うのよ。そんなに深い意味はないから」
そんなことを声をあげて泣きながら言われても、説得力はない。
「とっても美味しかったのよ、美衣子の料理。口に入れた瞬間に訳がわからないくらいいろんな感情が込み上げてしまったのよ……」
「そんな大袈裟に喜ばれても……」
喜んでもらえて悪い気はしないけれど、それ以上に、泣いていることへの心配が勝ってしまう。美衣子はソッと椅子を移動させて灯里の横の席に座った。元々4人掛け用の大きなテーブルだったから、横の席に座ることはできた。
「ごめんなさい、とっても美味しいのに、うまく表現できないわ。でも、まさか美衣子の作ってくれたご飯が食べられるなんて思わなかったのよ」
「わたしも、まさかあんたにご飯作ってるなんて信じられないわよ」
美衣子はため息をついた。あんなにも長い期間怒っていたのに、気づいたら美衣子は灯里の家にいた。しかも、灯里のためにご飯まで作っているのだ。これも灯里の作戦だったのだろうか。灯里の作戦にまんまと乗せられたのだろうか。
そんなことを思ったけれど、それならそれで良かったのかもと思わされてしまった。もはや美衣子の中に灯里への怒りの感情なんてほとんど無くなってしまっていた。
「灯里はずるいのよ……」
「え?」と鼻声で、顔を覆ったまま答えられる。
「だって、わたしあんたに彼氏寝取られたのよ? そんなの普通、無条件で絶交するし、土下座されたって許してあげないと思うわ」
「本当にごめんなさい……」
苦しそうな声が絞り出される。
「わたし、絶対に許したくないって思ってたから、灯里のこと憎しみながら、無気力に生きてた」
「ごめんなさい」と灯里がまた弱々しく、涙声で呟いた。
「あの日から、あんたのこと、ずっと嫌いだった」
「ずっと……?」
「ええ、この間茉那と久しぶりに会うまでずっと無気力に生きてたわ」
その言葉を聞いて、灯里がまた嗚咽し出した。
「ちょっと、そんな泣かなくて良いから!」
美衣子が止めたのに、灯里は激しく泣きながら、うまく出せない声で謝る。
「本当に……、ごめんなさい……。わたし、美衣子の大事な時間を……」
つっかえながら謝られてしまう。
「良いから、もう良いのよ。茉那のおかげでちょっとあんたへの怒り弱くなっちゃったし。再会なんてして、部屋まで借りて、おまけにそんなグッタリ疲れ切った姿見せられたらもう怒れないわよ……」
灯里はそのうち吐いてしまうのではないだろうかと思うくらい、激しい嗚咽をしている。美衣子がゆっくりと灯里の背中を撫でた。
「やっぱり美衣子は優しいのね」
「灯里がわたしに弱いところいっぱい見せるせいでね」
「弱いなんて、美衣子以外に言われたことないわ」
「どうせあんたのことだから、会社でも優等生の顔作ってるんでしょ?」
「優等生の顔かどうかはわからないけれど、少なくとも、美衣子と会うときとは違うわ」
「だと思った。何よ、高校の頃から変わってないんじゃない。わたしと会って、少しは変わったと思ってたのに」
呆れながら美衣子が言うと、灯里が涙と鼻水で顔を濡らしたまま、美衣子の方を見た。こんなときまで美人なのは流石にずるいんじゃないだろうか、と美衣子は内心思った。
「だって、美衣子がいないんじゃ、わたしは誰の前でわたしのままでいればいいのよ」
「そんなのわたしに言われても……」
美衣子は呆れながらソッと灯里の頭を撫でた。高校時代よりも随分と短く切られた髪は、あの時よりも少しパサついていた。
「もうどこにも行かないで……」
「わからないわよ、先のことは」
「そうよね……。先のことはわからないわ」
随分と灯里の物分かりがいいのは、大人になった証なのだろうか。それとも、何か含みがあるのだろうか。わからなかった。
わからなかったから、何も考えず、ただ灯里の髪の毛を撫で続けたのだった。
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