第176話 遅めの帰宅①

「寝てて良かったのに……」


スーツジャケットを腕にかけて、リビングに入ってきた灯里が誰に聞かれるでもなく呟いていた。ダイニングで冷えたお弁当を前にしている美衣子を見て、呟いていた。


「ずっとここで待っていてくれたのかしら……?」


もちろん、美衣子は何も答える気はない。時刻はすでに23時を過ぎていた。お金をもらって家まで無償で借りているのだから、家主よりも早く食事を取るわけにはいかないから、と思って待っていた。


まあ、正直22時を過ぎたくらいから、さすがにもう食べても良いかなと思ったけれど。


ダイニングのテーブルの真正面、灯里の席にもお弁当を置いておいたのを見て、灯里が呟く。


「わたしの分も買っておいてくれたの……?」


美衣子は黙って頷いた。


「ありがと……」


灯里がチラッと外で買ってきたであろうコンビニの袋の中を確認してから、美衣子の買っておいた唐揚げ弁当を確認した。灯里が隠すようにしてこっそり冷蔵庫に入れたのが、コンビニで買ったサラダパスタだったのを見てしまった。


灯里も外で晩御飯を買ってきていたらしい。明日から買わない方が良いのかと悩んでいると、美衣子の悩みを察したみたいに、灯里が答えてくれる。


「明日からは、わたしの分は自分で買うから大丈夫よ。でも、美衣子、本当にありがとう」


灯里が優しい笑みを浮かべて、美衣子の方を見た。


「わたしは着替えてからまた戻ってくるから、先に食べといておいてもらって大丈夫よ。でも、こんな時間まで待ってもらって本当にありがとう。明日からは気にせず食べておいてね。わたし、帰るの遅いから」


早口で言ってから、灯里は逃げるようにして自室に戻っていった。美衣子はお言葉に甘えて、先に食べておくことにした。


一緒に食事をすると、きっと灯里とうっかり言葉を交わしてしまいそうだったから、それで良いのだけれど。


多分、同棲を受け入れた時点で、灯里の思惑通りにはなっていたのだと思う。今は険悪とはいえ、あれだけ仲良くしていたのだもの。


現状に満足できていない美衣子の頭の中には、学生時代の頃の楽しかった思い出は美化されて思い出される。そして、その思い出の大半には灯里がいる。


(灯里は今だって、会社で必要とされていて、交友関係だってきっと多いだろうに。それでもわたしとまた仲良くしたがるなんて、ずるいのよ……)


灯里にとって、きっと美衣子は何十人もいる交友関係のうちの一人。いてもいなくてもそれほど変わらないけれど、いるならその方が良い、くらいの友達に違いない。対して、人との関わりが少ない美衣子にとって、灯里は数少ない知り合いなのである。必然的に灯里に対しての思いは大きくなる。


灯里と疎遠になってから、友達と言える子はいなかった。その時にはすでに茉那からも絶交を言い渡されていたわけだし。


小学生の頃は、真面目すぎて先生に色々な不正を報告していたら、鬱陶しい子として、クラスで浮いた。中学生の頃には思ったことをそのまま発し続けていたら、空気の読めない子として浮いた。


だから、もう高校時代には誰とも仲良くする気なんて無かったのに、灯里だけは鬱陶しいくらい仲良くしてくれた。そして、お互いに本音で話し合っても壊れない仲だった。親友だった。


一緒にいるうちに、いつしか親友以上の感情も抱くようになっていった。少なくとも、絶交をするまでの美衣子は、灯里に対してかなり高い好感を持っていた。


(そんな状況で同棲するようになって、いつまでも険悪な状態を維持できるわけないでしょ? 灯里はズルいのよ……)


黙々と食べる冷めた親子丼弁当を味わう余裕もなかった。灯里が戻ってきた時に、また無視し続けられる気はしなかった。


だから、さっさと食べようと思ったのに、いろいろ考え事をしていたせいで、時間がかかってしまった。それなのに、灯里はまったく戻ってくる気配はない。


「ごちそうさまでした」と小さな声で手を合わせて、弁当箱をゴミ箱に捨てた後、ダイニングを去って、自室へと戻る。その音と入れ替わるようにして、灯里がダイニングへと足を運ぶ音が聞こえた。


美衣子が灯里と話したくないという気持ちを察して、気を遣ってくれているようだった。


「あんたの家なんだから、気なんて使わずに、自由に使いなさいよ、バカ!」と一人部屋の中で、扉にもたれながら灯里にも聞こえるような大きな声を出した。


その数秒後、ドアの前に人の気配がした。灯里が美衣子の部屋の前に立っている気配がして、思わず姿勢を正して、息を殺してしまう。ドア越しだけど、とても近い距離に灯里を感じて、緊張してしまう。


「ありがとう、美衣子。大好きよ。これは独り言だから」


灯里はいつもよりも一段と小さな声で呟いた後、またダイニングへと戻っていった。


「バカ……」と今度は灯里に聞こえないように小さな声で呟いて、ペタリと床に座り込んだのだった。

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