第164話 会いたくないあの子④

透華のカフェから20分くらい歩いたところに灯里の家はあった。住宅街にひっそりと店を構える透華のカフェとは違い、灯里の住むマンションは駅のすぐ近くにあり、周囲にも高いビルが多かった。


「この部屋は美衣子が好きに使って良いから」


美衣子は黙って頷いてから、灯里が案内してくれた部屋に入る。


部屋の広さは茉那の家程ではないけれど、主要な駅の近くとか、辺りの賑わいとか、利便性を考えたら灯里の家の家賃もかなり高そうだった。


(茉那も灯里も人生上手くやってるのに、わたしは昔彼氏を寝取って来た人の家にお情けで住まわせてもらってるなんて……)


自分に対して嫌悪感が募ってしまう。灯里にはさっさと背を向けて、美衣子は部屋に篭ってしまった。


ため息をついて部屋に戻ってからスマホを見ると、茉那からとても心配そうなメッセージが入っていた。


「そういえばわたし、茉那たちが帰るまでに飛び出しちゃったもんね……」


さすがに音信不通にしたら悪いけど、かと言って、せっかくカッコつけて離れたのに、実は近くにいると返すのもなんだか嫌だから、とりあえず母親の実家に行ったことにでもしておこうかな。そんなことを考えながらメッセージを返しておいた。


「しかし、結局来てしまったのね、灯里の家に」


美衣子が大きくため息をついた。端っこに畳まれた布団が置いてあるだけの殺風景な部屋。使われている形跡はない。まるで、元から美衣子が泊まることだけが想定されたような部屋だった。


「まさかと思うけど、これ初めからわたしが泊まるために用意された部屋じゃないわよね……?」


現実的に考えて絶交中の友達が同棲することを想定して家を借りる人なんていないとは思うけれど、正直灯里ならやりかねない。


「いやいや、まさかね……」と一応美衣子の中にあるヤバそうな考えを否定していると、部屋の外から声がした。


「ごめんなさい、美衣子。わたしこれからまた会社に戻らないといけないの。お金はダイニングの机の上に置いてあるから、適当に使って何か買ってきてちょうだい! 全額使ってくれて構わないから!」


返事はしなかった。というよりも、そもそも返事をするより先に慌ただしく灯里は出て行ってしまった。土曜日も仕事とは、なかなか忙しそうだな、と思う。


これだけ忙しいのに美衣子のために仕事を抜け出して透華のカフェにやってきて、美衣子をわざわざ自宅に案内したのはさすが灯里と言ったところだろうか。


美衣子は灯里がいなくなってから、ゆっくりとダイニングに出る。ダイニングにもあまり物がなくて生活感がない。ホテルを1ヶ月ほど借りて、一時的に人が住めるようにしたみたいになっている。


机の上には1万円札がポンと置いてあった。


「これ全額使って良いって、あの子の金銭感覚どうなんってるのかしら……」


美衣子への罪滅ぼしのつもりで慰謝料的なものも込みで置いているのだろうか。だとしたら、恋心を裏切られてしまった心の痛みは1万円ではとてもじゃないけれど、足りない。本気で一食分の料金として置いているなら多すぎる。


少額だけどまだ自分のお金は残っているから、とりあえず今日はそこから支払おう。部屋を無償で貸してもらって、食事代まで出してもらうなんて、相手が灯里じゃなかったら、申し訳なさすぎてとてもじゃないけど受け取れない。


ちなみに、灯里からなら施しを受け取っても申し訳ないと思わないのは、灯里からあれだけ酷いことをされたから、そのくらいの報いを受けてもいいと考えているわけではない。少なくとも、あの日絶交するまでは美衣子は灯里のことをとても強く信頼していたからだ。


それこそ、当時の2人の関係性は、部屋を借りて、お金も借りるくらいの恩は、一緒にいるうちにすぐにでも返せるだろうと確信できるくらい、お互いの信頼は深まっていた。美衣子と灯里はあの絶交した日までは、相互に大抵のことなら許しあえる仲だった。


だけど、あの日灯里は、美衣子よりも、美衣子の彼氏を欲しがった。美衣子にとって地面の全てが崩落していくような、まともに立っていることもできないようなショックな出来事だった。あの日から、関係性はすべては変わった。


灯里は美衣子のことを愛してくれていると思っていたのに、美衣子への愛は突然現れた美衣子の彼氏にすら負けてしまっていたのだから。


「灯里なんて大っっっっっ嫌いよ」


思い出して、ギュッと拳を握った。けれど、言葉に出してみると、ほんのり苛立ちも紛れてくる。


今美衣子が思い出して嫌悪感を表したのは大学時代のことだったけれど、そもそも2人の出会いの時点からお互いを嫌いあっていたことは、もはやほとんど記憶に薄い話である。


けれど、久しぶりに嫌悪感の溢れている状態での灯里と向き合わされて、あの頃の記憶が蘇って来てしまう。


「……そういえば、高校時代も初めは灯里のことは嫌いだったっけ」


高校時代、会った当初は大嫌いだった隣の席の楪灯里についての話は、美衣子にとっても思い出すのは久しぶりだった。

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