第162話 会いたくないあの子②
「美衣子!」と小さい声量なのに聞き取りやすい、上品な声が呼ぶ。大学2回生の冬までは何度も何度も聞いた声。いつもそばで聞いた、とても安心する声。だけど、それは過去の話。
目の前に立っているのは、
灯里の後ろからはタクシーが去っていく音が聞こえた。美衣子は小さく舌打ちをして、透華を睨む。
「グルってこと?」
透華が慌てて目を逸らす。無意味に美衣子のことを引き止めようとしたのはこのためだったのか、と頭を抱えた。
心の中では透華の胸ぐらを掴んで納得するように理由を教えて欲しかった。よりによって一番会いたくない子が美衣子のいる喫茶店に入ってきてしまったのだから。
もう一度、舌打ちをして、憎悪の感情のこもった声で美衣子が相手の名前を呼んだ。
「久しぶりね、灯里」
目の前に立っている灯里は、最後にきちんと話した大学時代の印象からは、かなり変わっていた。
昔は腰の辺りまで伸びた綺麗な黒髪をしていたけれど、今はかなりバッサリ切っていて、肩にかからないくらいのショートカットにしている。丸みを帯びたショートボブの髪型が、灯里の目鼻立ちのくっきりとした顔を、より引き立てているように見えた。
土曜日だけどスーツを着こなしているから、今日も仕事だったのだろうか。スーツのブランドはよくわからないけれど、なんとなく高くて良さそうなものを着ていることは見当がついた。
元々背の高い灯里だったけれど、今はヒールパンプスを履いているせいで、普段よりもさらに大きく見えた。ヒール込みなら170センチ代半ばくらいの背丈に見えるから、目を合わせるには見上げないといけなかった。まあ、視線を合わせるつもりなんてないから関係はないのだけど。
灯里が堪えきれず口元を緩めてしまっている姿を、ほんの少しだけ愛らしく感じてしまいかけている自分の感性が嫌になる。
今は仲違いしているとはいえ、昔は完全に心を許していた子が自分を求めて会いに来てくれるというのは、今の一人ボッチの美衣子には付け入る隙を与えてしまう。変な情が湧く前にとにかくさっさと立ち去ってしまいたかった。
美衣子はさらにもう一度舌打ちをしてから、灯里の脇をすり抜けようとした。出入り口は一つしかないから、どうしても灯里の横を通らなければならない。
「待って、美衣子!」
「離せって!」
手首を掴んできたから、普段使わないような乱暴な言葉を発しながら思いっきり手を振り解く。灯里がバランスを崩して転びそうになっていた。ほっそりとした体は、見た目以上に脆そうだ。
美衣子には灯里と話すことなんて、何もない。さっさと行こうと思ったのに、今度は透華が後ろからギュッと抱きついてきて、美衣子の動きを止めた。
「透華さん、やめてくださいって」
「話だけでも聞いてあげてよ……」
「聞きませんよ! 灯里が何したか知ってるんですか?」
「……なんとなくは知ってるけど、でも、美衣子ちゃんの思っているようなことじゃないから、ちゃんと話だけでも聞いてあげてよ……」
「嫌です! 問答無用で許せないですよ! 灯里のせいでわたしはしばらく人間不信になったんですから!」
そうやって美衣子と透華が揉めている間に、灯里が突然正座をしたかと思うと、綺麗に膝の前の床に手をついて、続いておでこをピッタリと床に付けたのだった。灯里がとても姿勢の良い土下座を見せてくる。
「ごめんなさい、美衣子……。謝るだけではすまないようなことをしたのはわかっているわ。でも、謝らせてほしいの……」
床の方に顔を向けているから正確なことはわからないけれど、鼻声になっているから、多分灯里は泣いている。
「ちょ、ちょっとやめなさいよ!」
美衣子が慌てて灯里の背筋を起こそうとした。高そうなスーツと綺麗な肌を汚させてしまっていることに罪悪感が湧いてしまう。だけど、灯里は起きてくれない。
「ねえ、美衣子。本当にごめんなさい……。あの時は本当にどうしてそんなことをしたのかわからなくて……。わたし、美衣子に許してもらえるならなんでもするわ。お金だって貢ぐし、靴だって舐めるし、ちょっとくらいなら悪いことだってできるわ」
「ねえ、そんなこと恥ずかしいから透華さんの前で言わないでよ! いや、わたしと2人の時でも言われたくないけど!」
「わたしにもう一度チャンスをちょうだい……」
「チャンスなんて……」
上げたくないって言えば良い。もし美衣子が灯里に彼氏を取られて怒った理由が彼氏を愛していたからなら、何もかも全部無視して、帰れば良い。許す必要なんてない。でも、そうじゃない。
「とにかく顔を上げてってば……」
急いで両手で体を起こして、顎をつかんで上げさせた顔と視線があった。目を真っ赤にしながら涙を浮かべて、鼻を啜る灯里の姿がとても綺麗で、思わず視線を逸らしてしまう。
うっかり見つめたら、また大学時代の旅行の日のことを思い出してしまいそうで、間近で見つめることはできなかった。ショートカットにして、メイクをしっかりして、少し疲弊しているような様子は、元々艶やかだった灯里をさらに妖艶にしていた。
(ほんっとにムカつくくらい綺麗なのよね、この子……)
美衣子は、確かに灯里に彼氏を取られて、それを怒っている。だけど、当時美衣子が怒っていたのは最愛の彼氏を灯里に奪われたからではない。灯里が選んだのが美衣子ではなかったことに怒っていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます