第160話 完璧な彼女②
「お客さん、着きましたよ」
運転手の声を聞いて、灯里は目を覚ました。たった10分ほどの乗車だったにも関わらず、ウトウトしてしまっていたらしい。気付けば、単身で住んでいる都内のアパートにたどり着いていた。
仕事が忙しい分、同世代の中では多めにお金はもらえていたから、それなりの立地の場所に部屋を借りることはできていた。
一応、彼が泊まりに来たときのために2DKの部屋を借りているけれど、今のところ、彼を部屋に入れたことはない。ほとんど使っていない生活感のない小綺麗な部屋が存在しているだけだった。
(何かの間違いで美衣子が空いてる部屋に泊まってくれたら良いんだけど、そもそも話すらできていないのに、無理な話よね……)
灯里はあり得ない理想について考えてから、ため息をついた。まあ、そもそも今の立場的には、今でも恋心を持っている子と一緒に生活をするなんて、大問題ではあるけれど……。
ジャケットをハンガーにもかけずに適当に脱ぎ捨ててから、ベッドに飛び込んだ。いつもの癖で、自然にベッドボードの方をチラリと見ながら。
ベッドボードには未だに美衣子と一緒に撮った大学時代の旅行の写真が置いてある。いつでも大きいサイズで見られるように、わざわざ現像したのだ。スマホの画像だと、開くまでにいくつかの手順を踏まなければならないけれど、これならいつでも美衣子を見ることができる。
大事な写真は可愛らしい水色のフォトスタンドに入れている。写真の中の灯里と美衣子はとても仲良しで、この数ヶ月後に大喧嘩をして顔を合わせることも話をすることもなくなるなるなんて、想像もつかなかった。
「ねえ、美衣子……。どうしたらわたしと会ってくれるのかしら……」
写真に写る美衣子を撫でて、呟いた。会ってもらえないようなことをしたのは灯里の方だったから、嫌われて当然だった。
初めてできた美衣子の彼氏を寝とってしまったのだから。親友の彼氏を寝とるなんて、いくら優しい美衣子だって、怒って当然だった。
まだ灯里がその彼のことを好きならば、少なくとも灯里だけでも幸せになれた。だけど、そうではない。灯里が好きなのは高校1年生の初冬から今まで、ずっと美衣子だけだ。美衣子の彼氏を寝とったけれど、美衣子に絶交を告げられた日に、彼氏とはそのまま別れた。
「だって、美衣子がわたし以外と恋に落ちるなんて、正しくないもの……」
うわごとのように灯里は呟いた。さすがにもう人前でそんな理論は口に出せないけれど、その気持ちは今でも持っている。
今頃美衣子はどこかで素敵な彼氏を見つけて、付き合っているのだろうか。それとも、茉那と同棲しているみたいだったから、そのまま茉那と付き合ってしまったのだろうか。わからないけれど、灯里と結ばれないことはたしかなのだから、もうそんなことを考えるだけ無駄かもしれない。
「どうでも良いのよ、本当に……」
そんなことを呟きながら、ベッドの上で横になりながらパンツスーツとストッキングを無理やり脱ぎ捨てて、ベッドの上から叩きつけるようにして、床に投げ捨てる。今の灯里の姿は会社での完璧な姿からはかけ離れていた。
何もかも嫌なことだらけだったから、もうなんでもよくなってきていた。ショーツだけになった下半身の性器に、指を乱暴に当てた。
「わたしが好きなのはずっと美衣子だけだったのよ……」
喉の奥から小さく声を出しながら、呟いた。このところ、心身ともに疲れ切っているせいだと思う。自室で美衣子のことを考えるだけで濡れてしまう。
「愛してるわ、美衣子……」
うわ言みたいに名前を呼んでから、喉の奥から小さな声を漏らした。ショーツの隙間から中に挿れていた指にねっとりとした愛液がついている。
今付き合っている彼とは婚約までしているのに、一度もセックスはしていない。誰にも挿れさせる気なんてない。美衣子以外に愛を与えられても嬉しくなんてない。当然、美衣子から寝とった彼ともセックスなんてしていない。
美衣子から彼氏を寝とってしまったけれど、ずっと愛しているのは美衣子だけだった。美衣子への恋心については、一度だって裏切ってはいない。
それ故に選択した誤った行動のせいで嫌われてしまったことは受け入れなければならないことは、さすがの灯里でもわかっていた。
「でもね、美衣子……。わたしたちの転換点はそこじゃないのよ……」
あの日のことを思い出してうわごとのようにまた呟いた。とても眠い。夢の中なのか現実なのかもうわからないけれど、思い出すのはとても仲が良くなっていた2回生の夏休み終盤に行った、2人での旅行のこと。
灯里と美衣子の仲は過去最高に良かった。それなのに、湖畔で転んだ美衣子に手を差し伸べたときに、突然美衣子は灯里の手を払い退けてしまったのだった。反射的に、灯里のことを拒むみたいに。
今みたいに凍りついてしまった関係性ならその行動は理解できる。でも、少なくともあの瞬間は間違いなく灯里と美衣子はお互いに信頼し合っていたはずなのに。
あの日から、美衣子はずっと灯里に対してよそよそしかった。さらには彼氏まで作って灯里から離れようとした。結果的に灯里が美衣子の彼氏とつきあったことで2人の距離は離れてしまったけれど、その前に美衣子に離れようとしていた兆候はあった。
「ねえ、美衣子……。あの夜わたしは湖畔であなたに対して何をしてしまったの……?」
寝言のように、灯里は呟いた。そのまま、上はインナーを着たまま、下は濡らしたショーツ姿のまま、灯里は眠ってしまったのだった。
明日は土曜日だけど、出社。多分日曜日も出社。今の灯里に休める日なんてない。仕事と美衣子のこと以外、何も考えたくはなかった。
机の上には、スーパーの文房具コーナーで買ったボールペンや付箋と同じくらいの価値はある婚約指輪を今日も乱雑に放置したまま、また灯里は明日に向けて寝息を立てていた。
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