第147話 温もり④

ぼんやりと玄関に座ったまま、どのくらいの時間が経ったのだろうか。また、呼び鈴が鳴った。その後に、馴染みのある優しい美紗兎の声が聞こえた。


「まなさーん! いたら返事してくださーい!」


そういえば今日は楽しみにしていたタコ焼きパーティーの日だったっけ。まあ、もうそんな呑気なことできそうにもないけれど。


何度か美紗兎は茉那のことを呼びかけたけれど、何も答えられる気にはならなかった。居留守を使おうと意図的にしているわけではなく、体に力が入らなかった。


立ち上がる気力もなければ、美紗兎に話しかける気力も湧かない。黙っておけば、そのまま帰ってくれると思ったのに、美紗兎はドアを開けてしまった。そういえば、鍵をかけることもなく、玄関先で座り込んでしまったのだったと思い出す。


美紗兎と視線を合わせるにもならず、ずっとぼんやりと前を見たままだった。美紗兎の膝がほんの少し震えているようにも見えた。


膝を震わせて、その場から動こうともしない美紗兎。どうせ、もう美紗兎に話しかけるつもりはないのだから、さっさと帰って欲しかった。明らかに平常時とは違うことなんて、誰が見てもわかるのだから、幼少期からずっと一緒にいて、今まで茉那の感情を察し続けてくれていた美紗兎なら、今茉那が誰とも会いたくないことはすぐにわかるはず。それなのに、美紗兎はずっと玄関先で立ち尽くしている。


「帰って……」


喉の奥から振り絞るように出した声が、美紗兎に届いているのかどうか確信はなかった。


もう一度、途切れそうな小さな声で、「帰ってよ……」と伝えると、美紗兎はようやく後退りするようにすり足で少しずつ後ろに下がっていく。


美紗兎が帰ると、また一人になってしまうけれど、それでいい。本当は寂しいけれど、今は美紗兎の優しさを浴びるのは辛いし。


そう思っていたのに、美紗兎の後退りの足は止まってしまった。なんだか一瞬時が止まったみたいに、音も風も、全てのものが消えてしまったような、不思議な気分になる。


その後に美紗兎が小さく唾を飲み込んだ音がしたかと思うと、突然夕立で濡れた衣服を脱ぎ出して、下着姿になってしまった。


何してるんだろう、とほんの一瞬だけ理解できない美紗兎の行動の意味を考えようとしたけれど、考えても無駄だから、やめた。


ただ一つ言えそうなことはこのまま帰るつもりはないのだろうと言うこと。一人にされると辛いけれど、それ以上に無理に構われる方が迷惑だな、と思ったけれど、その感情を伝えるほどの元気もない。


ただ何も考えずに、先ほどと変わらずにぼんやりと前を向いたままにしていると、突然美紗兎がしゃがみ込んだ。美紗兎は視線を合わせようとしてきているのだろうけれど、茉那の方がぼんやりと遠くを見たままだったから、視線は合わなかった。


茉那さん、と美紗兎が小さな声で呟いたかと思うと、そのままゆっくりと、正面から腕を首元に回してきて、少しずつ体を密着させてくる。ほっそりとした美紗兎の体が優しく茉那を包み込んだ。美紗兎が小さく吐き出した吐息が茉那の首元にかかって、少しこそばゆかった。


こんな真夏に何を考えているのだろうか。部屋にエアコンは効いているけれど、密着している部分は当然暑い。訳がわからなかったけど、反応がなければ美紗兎も暫くしたら諦めて帰るだろうと思った。


だけど、美紗兎は10分経っても、20分経っても、抱きついたまま離れようとはしなかった。1時間弱ほどギュッと抱きしめられてくると、茉那を取り囲む空気のすべてが美紗兎の匂いで満たされてきたような気分になってくる。


ずっと抱きしめられ続けていたから、ほんのり汗臭い、だけど全然嫌じゃない、落ち着く匂いに包まれる。美紗兎の匂いで、少しだけ現実に気持ちが戻ってくる。

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