第146話 温もり③

結局、梨咲とはあれから何も話せないまま月日は経っていった。心配な感情はあったけれど、美紗兎とのたこパの話もあったし、そこまで深くは考えていなかった。


梨咲が今抱えているトラブルは、残念ながら茉那が助けてあげられることは何もないけれど、今抱えているトラブルについての話が終われば、きっとまた梨咲は今までと変わらず仲良くしてくれるはず。


それに、梨咲は強いから、きっと自力で立ち直ってくれるはず、と楽観的に考えていた。


(これで、テスト終わりだ! あとはみーちゃんと一緒にたこパするだけ!)


心を浮つかせながら、講義室を後にする。相変わらず、ヒソヒソと、茉那の方を見て知らない子たちからの陰口が聞こえないではないけれど、この後美紗兎と会える楽しみを考えたら、そんなことは気にしなくてもよかった。


急いで部屋に帰って、掃除をする。待ち合わせは19時、まだ2時間くらい時間があったから、十分片付けをする時間はあるはずだ。


掃除機をかけようとしていると、呼び鈴がなった。二度ほど連続で鳴った後、茉那がはーい、と返事をするのとほとんど同時にまた2回呼び鈴が連打された。随分と慌てている様子だけど、一体どうしたのだろうか。茉那は呼び鈴を鳴らす相手が美紗兎だと確信しながらドアホンの受話器を取る。


受話器だけのインターホンを取って、声を確認しようと思ったけど、向こうは何も答えてくれなかった。ただ、荒くなった呼吸の女性の声だけが聞こえてくる。名乗ってくれないドアの向こうの人物の存在に一気に不安が押し寄せてくる。


「みーちゃんじゃないの?」


真夏なのに、背中がひんやりとしてくる。今がお昼間で良かったと思いながら、ゆっくりと、音を立てずに入り口に近づいていく。こんなことならきちんと画面のついているインターホンの家にしておけばよかったと少し後悔しながら。


(誰だろう……)


恐る恐る覗いてみて、立っている人物の顔を確認して、茉那は安堵のため息をついた。


(あれ? 梨咲さんだ)


不審な人物どころか、とても信頼のできる人物。名乗らなかったのは珍しいけれど、きっとサプライズか何かのつもりなのだろう。何のサプライズかはわからないけれど、梨咲に怪我させないようにゆっくりとドアを開ける。その瞬間、ヒンヤリとした感覚が寒気に変わった。


「り、梨咲さん、どうしたんですか?」 


茉那が尋ねても、梨咲は今まで見たことないくらい冷たい目で茉那のことを睨んでいた。怖くなって、茉那は無理やり明るい声を出す。


「全然名乗ってくれないから、不審者かと思っちゃいましたよ。わたし、ビックリしちゃいまし——」


パチン、という音が自分の頬から出たのだと理解したのは、少し遅れてじわじわと痛みがやってきたときだった。


茉那が言い終わるよりも先に、平手打ちの綺麗な音がアパートの廊下に響き渡っていた。茉那の瞳に涙が浮かび始めた時には、すでに梨咲の頬には涙が伝っていた。


「嘘つき……」


真っ赤に充血した目で茉那のことを睨んでから、梨咲は少しよろめいてから去っていった。本当は追って、真相を確認した方がいいのだろうけど、茉那にその元気は無かった。


なんとか部屋に戻ろうと思って、ドアを閉めて、ふらつきながら室内に行こうと思ったけれど、途中で膝が動かなくなった。そのままストンと玄関で床にお尻をつけて座った。


真相はわからないけれど、梨咲がとっても怒っていた。先日茉那を呼び出した日のことと何か関係があるのだろうか。


とりあえず、スマホを手に取って、優しい彼氏に慰めてもらおうと思った。美紗兎が来るまでに、早く心を平常心にしないといけないのに。呼吸は荒くなってきているし、手は震えていて、何度もスマホを落としてしまっていた。


そして、ようやくスマホを掴んで画面を開こうと思ったのとほとんど同時に、彼氏からの連絡が来た。


『梨咲って、茉那の友達だったんだね。もしかしたら、梨咲が家に行くかもしれないから、気をつけてね』


手からスルリとスマホがこぼれ落ちる。


『ナー子は男運悪いからこのままずっと悪い男の人とばっかり付き合っていくのだと思ってたから』


いつだったか梨咲に言われた気がする言葉が頭に浮かんだ。


浮気されているかもしれないと力なく呟いていた梨咲は、茉那が浮気相手なのだろうと、薄々勘づいていたに違いない。それでも、確定するまでは疑わしきは罰せずで、茉那のことを信じてくれていたのだろう。


もちろん、何も知らなかった茉那にとっては不可抗力でしかない。梨咲にはゆっくりと事情を話したかったけど、あの雰囲気ではきっと何も聞いてくれないだろうし、会ってもくれないだろう。


今まで人付き合いを上手くできた試しがなかったし、今回もまた間違えてしまった。どうすれば人とうまく関わっていけるのか、わからなかった。わからないけれど、もうわからなくても良いと思った。何も考えずに、人と距離を取って一人で生きていくのが正解なのだろう。


幸か不幸か、今茉那の周りにいる人間はもう美紗兎くらいだ。美紗兎と完全に距離を置いてしまえばもう誰も傷つけることはない。今度は自身の恋心消すための中途半端で甘い断ち切り方ではない。美紗兎に嫌われるために立ち振る舞わなければならない。


あの子は茉那と一緒にいるべきではない。もっと幸せを掴まなければならない子なのだから……。

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