第116話 壊れた感情⑤
あの日から、茉那の中で何かが壊れたのだろう。
感情を失ったときのようなおぞましさこそないけれど、茉那は美紗兎の扱いを変えてしまった。
『今から会える?』
今日も、もうすぐ日を跨ぐような時間に呼び出された美紗兎は、困惑してしまう。初めて何も纏わない姿で抱き合ったあの日から、毎日のように茉那は美紗兎を夜中に呼び出した。
今までどれだけ美紗兎が愛の感情をぶつけても応えてはくれなかったのに、突然茉那は溢れそうなくらいの愛をぶつけてくるようになった。ただし、それは美紗兎としてではなく、美衣子としてだけど。
この日も、何も纏わずに向かい合ったまま座って、身をくっつけあって、茉那が美紗兎の乳頭を指先でクリクリと弄っていた。茉那の指先が触れるたびに、恥ずかしい声が出そうになって、必死に我慢をする。
「ねえ、"美衣子ちゃん"、気持ち良い?」
茉那が姿勢を下げて、上目遣いで美紗兎に問いかけてきたから、静かに頷いた。
「だったら、もっと声を出しても良いんだよ?」
茉那がクスクスと笑うけど、美紗兎は声を出せなかった。声を出すことが恥ずかしいという気持ちもあるけれど、それ以上に、茉那の機嫌が突然悪くなることが怖かった。
茉那は美紗兎に、"美衣子ちゃん"としての正解を求めている。そして、求められるクオリティは会うたびに高くなっていく。
「遠慮しときます。なんだか恥ずかしいですし……」
そう答えた時に、美紗兎がうっかりしたことに気付くよりも先に、茉那の表情が曇った。
「今日はもうやめとこっか」
茉那が小さくため息をつく。美紗兎は選択肢を間違えてしまった。茉那の前で、"美衣子ちゃん"は敬語を使わない。
「す、すいません。茉那さ……、じゃなくて、茉那」
「もういいよ、帰って」
茉那がわざとらしすぎる作り笑いを浮かべて、そんなことを言う。美紗兎が困ったように立ち尽くすと、とどめにもう一度、茉那は美紗兎に「聞こえなかったかな?」と呆れたように笑って言った。
「ご、ごめんなさい……」
美紗兎は慌てて服を着る。泣きそうになるのを堪えながら、真っ暗な外に出た。茉那の前で、傷付いている様子は見せてはいけないから、落ち込むのは外に出てからだ。
モヤモヤとした感情を引き摺りながら、ほんのり目を潤ませながら帰る毎日が続いていった。
今となっては、彼氏がいるときだけ塩対応をしていた茉那はまだマシだったのかもしれない。あの夜以来、茉那はいつ態度が豹変するかわからなかった。その度に美紗兎は胸が痛くなるのに、それでも茉那に呼ばれたら行ってしまった。
「あの、茉那さん。たまには夜に会うんじゃなくて、この間みたいに一緒にカフェとか行ったりしませんか……? あそこのチョコレートケーキ、美味しかったから、また食べたいなぁ……なんて」
いつものように"美衣子ちゃん"としてエッチの相手をする前に提案したこともあった。だけど、茉那は俯いた。
「会いたくないんなら、無理に来なくても良いんだけどな」
そんなことを言われてしまったから、慌てて繕う。
「じょ、冗談ですよ。……さ、茉那。今日も楽しみましょう」
と"美衣子ちゃん"っぽい口調を手探りで話してみたけれど、茉那は寂しそうに笑って、拒んだ。
「もう今日は帰ってほしいな」
「え、でも……」
来て早々に帰れと言われてしまった。そんなすぐに帰ることもできずに、困惑しながら佇んでいると、茉那が寂しそうに笑う。
「みーちゃんは、暗いところよりも、明るいところの方が似合うと思うから、わたしとは仲良くしないほうがいいと思うよ」
「さっきのは、もう忘れてください……」
わがままを言ってしまったから、茉那のことを怒らせてしまった。茉那は何も答えずに、じっと美紗兎が帰るのを待った。
「明日からは、もう来なくて良いからね」
「え……?」
「しばらく一人で考えたいんだ」
茉那はフッと窓の外を見た。暗い部屋の中で月の光に照らされる茉那はやっぱり不思議な妖艶さがあった。
「あの……、わたし何か間違えちゃいましたか……」
美紗兎が尋ねると、茉那は視線を合わせずに首を小さく横に振った。
「みーちゃんは何も悪くないよ。ただ、わたしがいっぱい間違えて戻れなくなっちゃったんだ」
どういう意味かはわからなかったけど、とっても不安になる言葉。そんなことを言われてしまったら、茉那のことが心配でたまらなくなってしまう。本当はそばにいたかった。
けれど、茉那は美紗兎の方を見て、優しく微笑むと、胸元で小さく手を振って、バイバイの仕草をする。
これ以上、この場にいてはいけないという圧をかけられて、仕方がないから今日は去ることにした。またいつか、茉那がしばらく日を明けたら元通りの穏やかな状態に戻ってくれて、全部話してくれると信じて。
だけど、その日が美紗兎が茉那と会った大学時代の最後の日になるのだった。
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