第115話 壊れた感情④

美紗兎は涙を流し終えてから、静かに息を吐き出して体を起こした。入った時には暗くて少し怖かった部屋が、月の明かりに照らされてとても綺麗に見える。そして、目の前の茉那はいつも以上に可愛らしく見えた。


この状況に現実感はないけど、たしかに現実に起きたことなのだ。


(茉那さんがわたしのことを愛してくれた……)


いろいろな感情が渦巻いていたけど、最後まで残ったのは嬉しいという感情だった。


形は全然ロマンチックでもないし、言葉では何も言ってくれなかった。だけど、こうやって愛してくれたのだから、もうなんでも良い。泣いたことはバレないようにと気をつけながら、静かに目元を拭っていく。


幸い茉那はぼんやりとしていたから、バレることはないと思ったのに、ふと茉那が美紗兎の方を見てしまった。


一瞬、茉那が驚いたように目を大きくした後、気まずそうに床を見つめた。絶対に美紗兎と視線を合わせたくないというような意思も感じられた。


そして、ポツリとつぶやく。


「どうしよ……」


そう聞こえたような気がした。何に対しての言葉なのかわからなかったし、次の瞬間には感情を読み取れないような表情になっていたから、もしかしたら美紗兎の気のせいかも知れないとも思った。


茉那の意図を考えようとしたけれど、次に発された言葉のせいで、考える時間もなくなってしまった。


「みい……こちゃん、ありがと」


「え……。茉那さん……?」


すぐそばにいるのは美紗兎なのに、"美衣子ちゃん"と呼んだように聞こえた。言葉が詰まったように途中で止まったことが不自然ではあったから聞き間違いなのかもしれない。"みーちゃん"と"美衣子ちゃん"似ているから、聞き間違えたのだろうか。


「えっと……、茉那さん、わたし美衣子さんじゃなくて——」


ゆっくり訂正しようとしたら、茉那が慌てて美紗兎に抱きついた。そして、今度ははっきりと言う。


、ありがと」


え……、という困惑の声は音には出せなかった。当然、茉那が本気で美紗兎と美衣子を間違えているわけはないはず。つまり、茉那は高校時代に好きだった美衣子への愛をまだ引きずっていて、それを美紗兎にぶつけたのだ。


本当は、美紗兎のことなんて愛してくれてなかったのだ。


せっかく涙を流し終えたのに、別の涙で瞳が潤み始めた。


「わたしは、美衣子ちゃんと抱き合ったんだよね?」と茉那が念押しみたいに聞いてきた。


抑揚のない声だし、抱きつかれているから、表情も見えず、茉那の意図はわからなかった。だけど、これが質問ではなく確認であり、もっと言うと、事実を変更させるための念押しのような、そんな強い言葉に思えた。


美紗兎にできることは、事実を伝えることではなく、ただ茉那が納得しれくれそうな答えを消去法で探し出すことだけ。


だから、美紗兎は「はい」と泣きそうな声で伝えた。さっきの嬉し泣きは悲しみの涙に変わっていく。


(そっか……、茉那さん、やっぱりわたしのこと愛してくれてなかったんだ……)


一度フラれているのだから当たり前といえば当たり前なのだけど、一瞬ぬか喜びしてしまっただけにショックは大きかった。もしかしたら、茉那が美紗兎の愛を受け入れてくれる可能性があるかもしれないとほんの一瞬だけ思ったけれど、それはもう否定された。


でも、茉那が少しでも元気になってくれるのならそれで良いのかもしれない。美紗兎が泣きそうな顔で、無理やり口角をあげて、えへへ、と中途半端に笑った。


(今は美衣子さんでもいっか……)


今日この部屋に来たときの感情を失ったみたいな茉那を見るくらいなら、美衣子として愛されることは良いことだ、と美紗兎は自分に言い聞かせた。


一体茉那の身に何があったのかわからなかったけれど、またしばらく経って、茉那の心が落ち着いたら聞こうと思った。また一緒にカフェに行ったりして、部屋でお茶をしたりしながら、ゆっくりお話を聞こうと思った。


しばらくすると、茉那はまた落ち着いて、きっと今までと同じように美紗兎のことを可愛がってくれるから。いつも通りに戻るから。


だけど、この日は茉那との不健全な関係の始まりの日でしかなかったのだった。

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