第110話 束の間の平穏③

放課後になり、美紗兎は急いで下足室で茉那の靴を確認したけれど、入っていたのは上履きだった。


(もう帰っちゃってるのか……)


先に家に帰ってしまわれたら、きっと居留守か用事を作られて、会ってはもらえない。会うためには、帰り道に茉那を強引に捕まえるしかなかった。


美紗兎は茉那が通っているであろう帰り道を走った。もっとも、同じマンションに住んでいるから、普段と通る道は変わらないけれど。


息を弾ませながら追いかけていると、茉那の後ろ姿が見えてくる。トボトボと、今にも消えてしまいそうな弱い足取りで家に帰っていた。


後ろ姿はとても小さく見えて、小学生の頃にいつも美紗兎のことをリードしてくれていた頼もしいお姉さんの姿からかけ離れているように感じてしまう。声をかけてもいいのか一瞬悩んでしまったけど、大きく息を吸ってから、茉那の元に駆ける。


「茉那……さん!」


久しぶりに、大好きな茉那の名前を呼ぼうとしたら、心理的な距離感が掴めずに思わずさん付けで呼んでしまった。小学生の頃は"茉那ちゃん"と呼んでいたのに。


まだ20mほど離れていたけれど、茉那の体が一瞬飛び上がってから、すぐに後ろを振り向く。そして、美紗兎の姿を確認すると、この距離でもわかるくらい顔を青ざめさせてから、美紗兎から逃げるように走り出した。


「茉那さん……」


近づいてはいけない気がして、追いかける速度を緩める。茉那はとても嫌そうな顔をしていた。美紗兎を見て、あんなにも不快感を示した茉那を今まで見たことがなかった。


(やっぱり嫌われちゃってますよね……)


幼少期のときにとっても優しくしてくれた茉那に、このまま嫌われてしまうのだろうか。


まだ幼児だった頃に、美紗兎の両親は離婚して、今住んでいるマンションに引っ越すことになった。そのときは、人見知りな性格も相まって、新しいことへの不安や恐怖がとても募っていた。


それでも、初めて会った茉那は、新しく引っ越してきた不安そうな美紗兎に優しく手を差し伸べてくれた。それからも、ことあるごとに美紗兎のことを可愛がってくれた優しい茉那の姿を思い出す。


そんな優しい茉那と、こんな形で離れたくなんてない。


「……茉那さん!!!」


逃げる茉那に向かって大きな声を出した。


「茉那さん、お願い、待ってください!!」


美紗兎がもう一度走り出した。


「茉那さん! 待って!!」


何度も声をかけていたら、茉那が立ち止まり、美紗兎の方に振り向いた。そして、困ったように笑ってから口元で人差し指を立てて、静かにして、とポーズを取る。


そんな茉那の元に、美紗兎が駆け寄った。


「みーちゃん、あんまり大きな声でわたしの名前呼んだら、誰かに聞かれたら大変だよ」


「大変って、何がですか?」


「みーちゃんがわたしと仲が良いって思われちゃうよ?」


寂しそうに笑う茉那を見て、胸が苦しくなってしまう。


「わたし、茉那さんと仲良いですよ……。茉那さんのこと大好きなのに、この間はわたし茉那さんのこと先輩から庇ってあげられなくてすいませんでした……」


「わたしもみーちゃんのこと、大好きだよ。でも、学校で仲良くするのはやめてほしいな。わたしといたら、みーちゃんも嫌われちゃうから」


泣きそうな顔をしている美紗兎の方を見て、茉那が優しく微笑んだ。


「わたし、茉那さんと一緒にいられるなら、みんなから嫌われても——」


美紗兎が言っている途中で、茉那がそっと美紗兎の唇を人差し指で押さえた。声を止めさせてから、静かに首を横に振った。小学生の頃とは逆転した身長差のせいで、メガネ越しの可愛らしい大きな瞳が美紗兎のことを優しく見上げてくるから、ドキリとしてしまう。


「わたしはもう来年卒業して、この学校からは逃げられるけど、みーちゃんはまだわたしが卒業してから2年間通うんだよ?」


「それでも、茉那さんが悲しそうにしてるの見るくらいなら……」


そう言いつつも、茉那無しで2年も白い目で見られながら学校に通うのは怖くて、口調は弱々しくなってしまう。そんな美紗兎の頭を、茉那がそっと撫でた。


「わたしは大丈夫だよ。みーちゃんがそうやって優しいことを言ってくれるだけで、すっごく元気になれたから。それに、わたしのせいでみーちゃんが嫌われちゃったりしたら、そんなのわたし、今とは比べ物にならないくらい悲しい気持ちになっちゃう。絶対に耐えられないから、やめてほしいな」


茉那の表情は穏やかで、どこまでも美紗兎に対して優しかった。さっきは茉那のことを、頼もしいお姉さんの姿からかけ離れている、なんて思ってしまったけれど、それは大きな間違いだったみたいだ。


茉那は昔と変わらず、とっても美紗兎に優しい、頼もしいお姉さんだった。


けれど、そんなカッコいい茉那の姿に対して、茉那を助けてあげることができない自分の無力さが嫌になってしまう。


「せめて、こうやってひっそりと会うこととかできないですかね……?」


美紗兎のできる精一杯の手助けだと思ったけれど、それを聞いて、茉那はまたゆっくりと首を横に振った。


「さっきも言ったけど、わたしは万が一にもみーちゃんと一緒にいるところを見られたくないから」


「じゃあ、わたしは茉那さんとはもう会えないってことですか……?」


恐る恐る尋ねると、茉那が優しく頷いた。


「中学の間はね。わたしとみーちゃんが中学校卒業したらまた会おうよ。家はすぐ近くだから、みーちゃんが高校生になっても、まだわたしと仲良くしてくれるんだったら、またいっぱい遊ぼうね」


茉那がどこまでも優しく微笑み続ける。辛い状況なのに、ずっと美紗兎のことを気遣ってくれる茉那の優しさに触れ続けていたら、美紗兎の目がいつの間にか潤んでいた。


「ごめんなさい……」


「あ、そうだよね……。勝手に決めちゃダメだよね。もちろん、みーちゃんはわたしのことなんて忘れて、友達と仲良くしてくれていいからね」


茉那があらぬことを言い出したから、美紗兎は慌てて「違います!!」と思いっきり否定した。


「わたし、茉那さんに何もしてあげられなくて……。それが申し訳なくて……」


俯いていると、地面にポタポタと涙が落ちていき、アスファルトが濡れていく。そんな美紗兎のことを茉那がギュッと抱きしめた。


「大丈夫だよ。みーちゃんの優しさはわたしのこと助けてくれてるから」


泣いている美紗兎のことを抱き寄せて、ゆっくり撫でながら、茉那が優しく声をかけてくれた。


(茉那さん、わたし、もっと強くなりますね……。茉那さんが寂しくならないように、ずっと一緒にいられるように……)


結局、中学時代はそれ以降茉那と話す機会は訪れなかった。


その頃のことを考えると、高校時代以降、また再会できたことは美紗兎にとっては本当に嬉しいことだった。


そして、今の茉那の姿には少し危うさがあるけれど、それでも中学生の頃の茉那の状況に比べたらずっとマシだと思うのだった。

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