第84話 おかえり……?①
「茉那さん、大丈夫ですか……?」
お風呂から上がった茉那がダイニングに行くと、美紗兎が不安そうに尋ねてきた。
美紗兎が何に対して大丈夫かとたずねているかわからなかったから、茉那は首を傾げた。
「茉那さん、さっきからずっと顔色悪いので、調子悪いのかなって思っちゃいまして」
「ああ、うん」と茉那は適当に返事をした。大丈夫ではない。けれど、それを美紗兎に伝える気にはなれなかった。
ふと机の上を見ると、お皿にリンゴが乗っていた。ウサギの形に剥かれたリンゴ。
「何これ?」
気持ちが不安定なせいか、いつもよりも冷たい声になってしまう。まるで怒っているような声になってしまっていた。それを聞いて、美紗兎は少し申し訳なさそうに言う。
「冷蔵庫にリンゴがあったんで、茉那さんに食べてもらおうと思って勝手に剥いちゃったんですけどダメでしたか……?」
冷蔵庫のものは自由に使っても一向に構わないとは前からつたえてあるから、今日も気を利かせてくれたのだろう。茉那がどれだけ嫌な子になっても、美紗兎はずっとずっと優しいままだった。
「ダメじゃないよ。嬉しい」
静かに椅子に座って近くでリンゴを眺める。上手に切れてる可愛らしいウサギの形をしたリンゴの山。
「みーちゃんはさ、どうしてそんなに優しいの?」
「優しいわけじゃないですよ。ただ、わたしは茉那さんに元気になってもらいたいだけです。それに、わたしよりも茉那さんのほうがずっと優しいですよ」
美紗兎がいつものように笑顔で言う。なのに、茉那は笑顔では返せなかった。
「どこが?」
今度は本当に冷たい声で尋ねた。
「わたしのどこが優しいの?」
部屋の空気が凍る。美紗兎の笑顔が困惑に変わった。
「わたし、ずっとみーちゃんの優しさを利用してるんだよ? 今日だって、わたしがみーちゃんのこと突然呼び出しちゃったんだよ? この間、美衣子ちゃんが家に泊まるからしばらく会えないって言ったのに。さっきだって、わたしの勝手でエッチしようとしたのに、わたしの気分でやめたんだよ? みーちゃんのことなんて何も考えてなくて、自分勝手なことばかりしてるんだよ。ねえ、それのどこが優しいの? そろそろ怒ってよ! わたしのこともう見捨ててよ!」
茉那は困惑し続けている美紗兎のことは気にせず捲し立てた。
見捨てて欲しくないのに、怒られたくないのに、なぜか口から出るのは真逆の感情ばかり。
美紗兎はしばらくの間佇んだ後、何も言わずに茉那に近づく。
「ねえ、何か答えてよ!」
それでも美紗兎は何も言わなかった。そのまま、黙って座っている茉那のことをゆっくりと抱きしめた。
「離してよ!」
「離しません」
美紗兎は静かに、でもとっても力強く答えた。
"美衣子ちゃん"になってもらって生身の体を触れさせあっていた時よりもずっと温かくて、心地よかった。
この優しい美紗兎の感情にずっと浸っていたくなる。だけど、茉那にそんな資格がないことはしっかりと理解しているつもりだ。
「離して!」
「嫌です……」
もう一度離れようとしたのに、美紗兎は縋るように拒んだ。
「茉那さんに利用されるなら本望ですよ……。好きなだけ利用してください……」
「やめてよ……」
茉那は涙を隠すために、思いっきり顔を美紗兎に押し付けた。今まで美紗兎に泣き顔を見られるのは何の抵抗もなかったけれど、今は見られたく無かった。
こんな関係、良いわけない。美紗兎との穏やかな関係はとっくに壊れているはず。それなのに、美紗兎は変わらず優しいままだった。
美紗兎は一刻も早く茉那から離れた方が幸せになれるだろう。きちんと恋をして、まともな人に愛されるだけの優しさも、愛嬌も、強さも全部持ち合わせているのだから。
それでも、美紗兎は茉那の傍にいてくれる。その優しさが尽きるまで、きっと茉那はずっと甘え続けてしまうのだろう。
美紗兎はそんな弱い自分のことをずっと見捨てないでくれる。
茉那は座って美紗兎の胸に顔を埋めたまま、力一杯美紗兎の腰の辺りを抱きしめた。
本当は茉那は美紗兎のことを素直に目一杯愛したかった。これでもかっていうくらい重たい感情をぶつけてしまいたかった。心の底からの好きを伝えたかった。
……だけど、それを伝えられるタイミングは、きっともうとっくの昔に過ぎている。
すでにヒビだらけになってしまっているこの脆い関係が、完全に取り返しのつかないことになってしまうのではないだろうかと思うと、この先には進めなかった。
ただひたすらじっと美紗兎に抱きつき続けることくらいしか茉那にはできなかった。
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