第73話 お誘い①
『茉那さん、8月の花火大会一緒に行きませんか?』
灯里の言ったとおりだった。美紗兎は茉那のことを嫌ってはいなかったらしい。茉那はメッセージが送られてきた瞬間に返信をする。
『行く!』
美紗兎が自分のことを嫌っていないということにホッとする。
だけどその一方で、花火大会と聞くとどうしても思い出してドキドキしてしまうことがある。茉那は気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸をした。
脳裏に浮かぶまだ小学生だった頃の美紗兎の姿。無邪気な、特別な意図のない柔らかな唇の感触を思い出して、首を思いっきり横に振った。
「あれはノーカンだから! 真面目なキスじゃないから!」
一人部屋の中で、クッションに顔を埋めながら否定する。けれど、感情はともかくとして行動としてはあれは間違いなく茉那にとってのファーストキスだった。
小学生の頃の記憶が蘇ってくる……。
小学5年生の茉那と、小学3年生の美紗兎は二人でマンションのベランダから見える公園に来ていた。近場とはいえ、夜に子どもだけで外に出るのは初めてで、いつもよりも少し浮き足立ってしまっていた。
「こっから見えるのかな?」
公園のベンチの上で立ち上がった美紗兎のことを見上げながら、茉那が座ったまま尋ねる。
「見えるよ! 去年見たじゃん!」
「去年はお母さんたちと一緒に夏祭り会場の近くで見た気が……」
「じゃあ去年の去年に見たじゃん!」
去年の去年、つまり一昨年もお母さんたちと一緒に夏祭り会場から見た気がする。けれど、それを言ったらまたもう一個去年が付け足されるだけの気がしたから何も言わなかった。
茉那たちの街では花火大会には合計1万発の花火を打ち上げる。県内屈指の大規模花火大会だ。
だから、会場近くの出店が立ち並んでいる場所はまともに歩けないくらい人でごった返している。
例年は花火大会の会場近くで見ていて、今年も本当は花火大会の会場近くで親同伴で見に行くつもりだった。だけど、直前になってから美紗兎が「今年は茉那ちゃんと2人だけで見たい!」と何度も何度も駄々をこねたのだった。
茉那も美紗兎と一緒に見るのは楽しそうだとは思ったけれど、さすがに小学生2人で夜に人ごみの中片道30分近く歩く花火大会の会場まで行くことは許されなかった。茉那もその距離を美紗兎と2人だけで夜に移動するのは不安だった。
結局、駄々をこね続けた美紗兎を納得させるための譲歩案が、2人の住んでいるマンションのすぐ近くの公園で花火を見ること。そして、花火が終わり次第すぐに家に帰ることだった。
「でも、どうして今年はそんなにも2人で見ることにこだわったの?」
「茉那ちゃんと一緒に見たかったから!」
美紗兎は立ったまま、ベンチに座っている茉那の方を見てにっこりと笑いながら元気に答えた。
それは答えになっているのかどうか怪しかったけど、とにかく茉那と一緒に見たいという気持ちだけは伝わってきた。
そっか、とそっけなく答えたけど、茉那は美紗兎が自分と一緒に花火大会を見たがっていることを知れて嬉しかった。
「そろそろ花火始まるね」
茉那の問いかけに、美紗兎が元気にうん、と頷いた。美紗兎が楽しそうならまあいいか、と茉那も納得しながら母親に持たせてもらったウサギの形をしたリンゴの入ったタッパーを取り出す。
「みーちゃん、食べよっか」
「ウサちゃんリンゴだ!」
美紗兎はベンチの上に立つのをやめて、慌てて座る。ウサギのリンゴに顔を近づけながら、タッパーの中のウサギたちを嬉しそうに眺めている。
「リンゴ飴じゃなくてごめんね」
美紗兎が毎年お祭りで楽しみにしているリンゴ飴の代わりにと思って茉那の母親が持たせてくれたリンゴだけど、リンゴ飴とリンゴは別物なのではないだろうか。いつでも食べられるリンゴよりも、夏祭りでしか食べられないリンゴ飴の方が特別感があっただろうから。
だけど、美紗兎は無邪気な笑顔で首を横に振った。
「ううん、みさと、茉那ちゃんのお母さんが作ってくれたウサちゃん大好き!」
「その言い方だと本物のウサギを作ったみたいになっちゃう気が……」
美紗兎の独特な言い方に苦笑した。そんな茉那のことは気にせず、美紗兎はリンゴを手に取る。
「やっぱり茉那ちゃんの家のリンゴはおいしいね!」
「スーパーで買ったリンゴだから味は変わらないと思うけど……」
手で食べるのは汚いからと思い、ソッとプラスチック製のフォークを手渡した。
シャクシャクと瑞々しい音を立てながらリンゴを食べていく美紗兎を眺めていると、花火が打ち上がる音が耳に入ってくる。
「あ、始まった!」
食べかけのリンゴをプラスチックのフォークに突き刺したまま、美紗兎は音の方向に視線を向けた。美紗兎の顔の動きに合わせて茉那も視線を音の方向に向かわせる。だけど、花火はどこにあるのかよくわからなかった。
「花火すごいね!」
美紗兎が楽しそうにはしゃぐ視線の先を見つめる。すると、ほとんど見切れている花火のはしっこの部分だけがかろうじて見えた。
「ほとんど見えないから、綺麗かどうかもわからない気が……」
「見えてるよ!」
美紗兎が頬を膨らませながら人差し指で大きなマンションが数棟建っている建物の隙間を指差した。確かに見えてはいるけれど、花火が目一杯花開いた後に地面に向かって流れていく光が一応かろうじて見えているだけだ。
でも、それを言うとせっかく楽しんでいる美紗兎に悪いからと思い、茉那は笑顔で「そうだね」と答えておいた。
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