第72話 距離感③
「さて、どこから話したらいいかしらね」
灯里がソーサーごとカップを持ち上げて、ブラックコーヒーに口をつけた。茉那はスティックシュガーを3本ほど入れてから口を付ける。本当はコーヒーは飲めないけれど、断るのも失礼だと思って砂糖の味でごまかした。
「そうね、まず茉那は何を疑っているのかしら? さっき美紗兎ちゃんのことを取らないでほしいって言ってたけど?」
「疑ってたというか……」
時間が経ってしまったこともあるし、終始灯里が大人の対応をしていることもあり、茉那のトーンはすっかり弱まってしまっていた。灯里のことを勢いで疑ってしまったけれど、こんなに優しく対応してくれる灯里が茉那に意地悪をしているとは考えづらい。
どうやって説明しようか悩んでいると灯里が慈愛に満ちた笑みを向けてきた。
「正直に言ってくれたらいいのよ。わたしは茉那にどんなことを思われても仕方がないようなことをしてきたのだから」
全てを許してくれそうなその笑みに茉那も心を許してしまう。
「ごめんね、灯里ちゃん。この頃みーちゃんがわたしのこと避けてるみたいだからいろいろと被害妄想しちゃってたんだと思う。灯里ちゃんと一緒にいたから、わたしのことは嫌いになって灯里ちゃんと一緒にいるようになったのかと思って……」
灯里がゆっくりとコーヒーカップを机の上に戻した。
「ねえ、茉那。落ち着いて考えて欲しいのだけど、わたしが茉那と美紗兎ちゃんの仲を邪魔する必要があると思うかしら?」
茉那が灯里の言葉に耳を傾けていることを確認してから灯里が続ける。
「エゴイスティックな言い方をさせてもらえば、茉那が美紗兎ちゃんといれば、美衣子の方に近寄らないだろうからわたしにとっても都合が良いのよ。つまり、事実とは違う仮定をさせてもらえば、もし仮に美紗兎ちゃんが茉那の悪口を言いにわたしのところにやってきたとしても、わたしは全力で茉那たちの仲を取り持つように動くわ」
確かに、あれだけ美衣子に執着している灯里がわざわざ今の状態に変化を加えようとするはずがない。説得力のある灯里の言葉に思わず茉那は頷いてしまった。
それを見て、灯里が「素直ね」と言ってくすくすと笑う。
「それに、こっちは信じてもらえなくても仕方ないのだけど、茉那にはたくさん酷いことをしてしまったから、わたしなり力になってあげたいという気持ちは常にもっているわ。もちろん美衣子の関わらない範囲でだけど」
茉那が苦笑しつつもホッとしている様子を見て、灯里が微笑んだ。
「だから大丈夫よ。あなたの心配しているようなことはないわ。今はいろいろ噛み合っていないだけで、あなたたちはとっても仲良しなままよ」
「そうなのかな……」
「ええ、そうよ。別に美紗兎ちゃんは茉那のことを嫌ってはいないし、避けてもいない。ただ、……そうね、無理やり理由付けをするとすれば、あなたの受験勉強の邪魔をしたくないから会わないようにしているのよ。正確にはちょっと違うけど、それが一番平和な解釈だわ」
正確にはちょっと違うという言い方が少しひっかかるけど、とりあえず灯里の説明を飲み込む。
「そんなの気にしなくてもいいのに。わたしはみーちゃんと一緒にいられればもう後はどうでもいいんだから……」
茉那が呆れたようにため息をつく。
「それだけ美紗兎ちゃんが茉那の将来のことまで真剣に考えて接してくれているってことよ。ただ一緒に甘い時間を過ごすだけの関係よりもよっぽど優しい仲だわ。だから茉那は何も心配しなくていいのよ」
ふふっ、と灯里が微笑みながら続ける。
「とにかく、そういうことだから、美紗兎ちゃんの優しさを信じて茉那はこの夏休みは受験勉強に精を出したらいいんじゃないかしら」
「信じてはいるけど……。でも、やっぱりわたしに愛想尽かしたんじゃないかって思っちゃうよ……。わたしはいっつもみーちゃんに甘えてばっかりだからそろそろ一緒にいるのが嫌になったところにちょうど受験勉強っていう言い訳ができたんじゃ……」
茉那が震えていたから灯里はため息をついた。
「茉那はとことん自分に自信が持てないのね」
灯里が立ち上がり、茉那の方にゆっくりと近づいてくる。そして、2人掛けソファーに座る茉那の横に座り込んで、体を茉那の方に向けた。そのまま灯里は茉那の両肩を持ってグイッと茉那の身体を自分の方に向けさせた。
すぐ目の前で、灯里がいつもよりも力のこもった瞳を茉那の方に向けた。鋭い視線は去年美衣子のことで揉めた時の表情に近くて正直少し怖いのだけど、きっとそれだけ真剣に茉那に向き合ってくれているのだろう。
「ねえ、茉那。今更わたしが言うことじゃないと思うし、茉那の方がよっぽどわかっていることだと思うわ。でも、わかりすぎているからこそ見えなくなってしまうこともあるから、あえてわたしが言うわよ」
そこまで言って、灯里がさらに顔を近づけると、茉那の視界の全てが灯里の切れ長の瞳でうめつくされてしまったかのような錯覚に陥る。肩を掴んでいる手にも力が入っていて結構痛かった。
「灯里ちゃん、ちょっと痛いかも……」
その声が聞こえなかったみたいに、灯里は先程迄の言葉を続けた。
「ねえ、茉那。わたしのことは好きなだけ疑ったら良いと思うし、美衣子や他の人たちのことも自由に疑ったら良いと思うわ。大半の人は自分の感情なんて表にはださないのだから。でも、美紗兎ちゃんの茉那に対する感情だけはちゃんと信じてあげなさい」
一体灯里は美紗兎とどこまで仲良くなり、何を話したのだろうか。ずっと一緒にいる茉那の方が絶対に灯里よりも美紗兎のことを良く知っている自信はあった。
だけど、今の美紗兎が抱えている何らかの感情については灯里の方がよく知っていそうだった。それに、灯里は真剣に茉那のことを考えてくれていることはわかったから、茉那は小さく頷いた。
「そうだよね……。みーちゃんは絶対にわたしのことを嫌うはずないもんね」
そんな当たり前のことに不安になってしまっていた。いや、正直まだ不安は完全には払拭できてはいない。それでも……。お泊り会の日に泣いていた茉那のことを抱きしめてくれた美紗兎の温かさを思い出す。
(みーちゃんのこと疑うなんてどうかしてたのかも……)
距離を置かれているのは確かかもしれないけれど、今は一旦美紗兎のことを信じよう。茉那はそう思った。
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