第57話 わたしだけの美衣子なの!②

「やめて! ほんとにやめて……!」


茉那の方も必死になってもがいた。なんとしても灯里の手を振りほどきたかった。


「絶対にやめないわ!」


「やめてってば!!!」


先程化粧をしてくれた後に見た美衣子の嬉しそうな笑顔が脳裏に浮かんだのと同時に、茉那は勢いよく灯里のことを突き飛ばしていた。


普段の茉那に灯里を突き飛ばせるくらいの力はないはずなのに、押した場所が悪かったのか、窮鼠猫を嚙むという言葉通りに普段以上の力が出たのかはわからないけれど、とにかく茉那は灯里を振り払っていた。


「痛っ」


灯里の苦しそうな声が聞こえ、水道の流しに視線を向けていた茉那が慌てて振り向く。どういう体勢になったのかわからないけれど、壁際で尻餅をついている灯里は目の上の辺りから血を流していた。


「えっ、灯里ちゃん! 血が……」


茉那は慌ててハンカチを持って近寄ろうとしたけど、それを灯里が制した。


「来ないでよ!」


「え?」


「あんたに情けはかけられたくないから」


内心かなり慌てているだろうに、灯里はゆっくり立ち上がって、スカートについた埃を払いながら冷静に言う。


「そんなこと言ってる場合じゃ──」


「わたしが良いって言っているのだから良いのよ」


先程まで取り乱して、今は瞼の上から血を流しているとは思えないくらい、灯里は普段通り、冷静で大人びた口調で答える。


「じゃあ、先生呼んでくるから……」


「何? 先生呼んでわたしの悪事を告発するつもり?」


自嘲的に笑う灯里の言葉を聞く。確かに、びしょびしょに濡れて、頭から水を滴らせている茉那が明らかな加害者とは言えなさそうな状況である。むしろ、ここまでの経緯を確認されたとき、立場が悪くなってしまうのはきっと灯里のほうだろう。


「でも、応急処置しないと……」


灯里の色白ですべすべした肌を真っ赤な血が伝って行くのは見るに耐えなかった。


「いいから。あんたにできることはここから去ることだけ」


「でも、わたしのせいで怪我をした人放っておけないよ」


「わたしがあんたのことをここに引きずって来なければ何も起きなかったんだから、わたしの自業自得よ」


壁にもたれかかれながら、灯里は冷静に答える。取り乱し続けて冷や汗で背中や手が濡れてしまっている茉那とは大違いだった。


「でも、突き飛ばしたのはわたしだし――」


「あんたが突き飛ばしたことは不可抗力よ。でもまあ、強いて言うならあんたが生意気にも美衣子にメイクをしてもらったせいでこうなったってことかしらね。あんたごときが美衣子に唇に触れてもらうなんて、出過ぎた真似にもほどがあるわ」


灯里は目の上から血を滴らせながら、茉那のことを睨みつけてから続ける。


「そうね、あなたが気にすることではないけど、もしわたしが怪我したことにどうしても罪悪感を持ってしまうなら、もう美衣子に関わらないで。それで全部、少なくともわたしは無かったことにするわ。元々わたしと美衣子で楽しくやってたのだから、あなたが去れば丸く収まるのよ」


言い切ってから灯里は大きく息を吐きだして、歩き出した。ゆっくりと茉那に背を向けてこの場から去っていく。怪我をした個所は灯里の持っていたハンカチで抑えながら歩いていた。女子トイレに残った灯里の血痕を暫く見つめてから、茉那もぼんやりと歩き出した。


そして、よく回っていない頭で茉那は考えた。自分なんかが美衣子と仲良くしてしまったからこんなことになってしまったのだ。だからもう、美衣子とは会わないでおこうと……。


その後下足室で泣きながら美衣子に絶交したい旨を告げた茉那は、高校を卒業し、大学を中退して、動画投稿者として暫く生活してから偶然街でばったり美衣子と出会うまで、長い間美衣子と言葉を交わすことはなかったのだった……。

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