第56話 わたしだけの美衣子なの!①

茉那が考えているうちに美衣子は職員室に向かって走り出してしまった。


「ごめん、茉那。すぐ戻るから!」


(あ、美衣子ちゃん、待って……)


茉那は心の中で呼び止めたけど、美衣子だって課題を出しにいかないと追試を受けなくてはいけなくなってしまう可能性がある以上、強くは止められなかった。


灯里は美衣子がいなくなっても、その場を動くつもりはないみたいで、茉那は灯里と2人で人通りの少ない教室の前の廊下で待つことになってしまった。


灯里と2人だけにされて、不安な気持ちはある。でも、今の茉那は美衣子の施してくれたメイクのおかげでほんの少しだけ前向きな気分になっていた。


(もし灯里ちゃんがわたしに何かするために意図的に待っていたとしても、今なら灯里ちゃんともしっかりと話せるかもしれない……!)


茉那は覚悟を決めて、その場から動かずに美衣子を待つことにした。


(でも、灯里ちゃんにはできればここから離れて欲しいな……)


そんな弱気な感情も渦巻きながら……。


とにかく美衣子が戻ってくるまで何事もなければいいのだけどと思って、茉那は静かに待っていたけれど、そんな茉那の期待は一瞬にして裏切られてしまった。


「随分と生意気なことをしてくれたわね」


灯里が静かに、だけどとても力強く茉那に言う。普段よりもずっと低めのトーンの声が茉那に向けられた。


今までも灯里は何度も何度も茉那に嫌悪の感情を示したけど、今回のは今までとは全く違う。いつもに増して敵意に満ちた声。


茉那の中に渦巻いていた小さな不安が一気に膨らんだ。このままだと間違いなく喧嘩になる。茉那は待つ場所を変えようと思い、灯里に背中を向けたところでかなり強めに手首を握られた。


「痛いっ! やめてよ!」


茉那が手首を振り払おうとしたけど、それより先に、灯里は茉那の唇を強く掴んだ。ギュッと唇をつままれて、アヒルの口みたいになってしまっている。痛いけれど、声は出せない。


「!?」


行動の意味がわからなくて、硬直していると、灯里が強い口調で言う。


「美衣子のでしょ、これ? 早く拭き取って! 洗い流して!! 美衣子にしてもらったメイク全部今直ぐ流してよ!!!」


灯里が茉那の唇を指で擦ったから、口周りがテカテカしていた。灯里が摘まんでくる手をなんとか振り払って、茉那は俯きながら声を振り絞る。


「嫌……」


声を発したのとほとんど同時に、灯里の舌打ちが聞こえた。


思えばこれが茉那の初めての抵抗だったかもしれない。今まで灯里に嫌がらせをされても、もめ事にしたくなくてただしょんぼりして逃げるだけだった。


でも、今日はせっかく美衣子にメイクをしてもらったのだ。こんな形で美衣子に付けてもらった新しい色彩を落としたくはなかった。


ここで素直に灯里に従ってメイクを落としたら、美衣子はもうずっと灯里の元にいるような、二度と茉那の方には向いてくれないような、そんな気がする。


「いいから落としなさい!」


灯里が乱暴に腕を掴んで、引きづるようにして茉那を引っ張る。身長が170cm近くある背の高い灯里と、それよりも20cm近く低い茉那だから、力の差はあった。


抵抗はしたけど、結局すぐにお手洗いに連れて行かれた。灯里は躊躇なく蛇口から水を出し、茉那の髪の毛を乱暴に掴んで、頭を水道水で濡らしてくる。


「ほら、早く落としなさいよ!」


乱暴に灯里は茉那の顔を手の平で擦っていく。


「やめてよ!」


「メイクが落ちるまでやめないから!」


灯里の口調は普段の余裕のある話し方ではなかった。明らかに冷静さを欠いて、かなり感情のこもった強い口調になっていた。


水道水では綺麗には落ちず、中途半端に落ちたメイクがじんわりと滲んでいく。せっかく美衣子が自分のことを飾ってくれたのに、どんどん落ちていく。美衣子のおかげで変わっていけそうな自分がどんどん消えていくように思えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る