第55話 もうすぐ3年生②
あの修学旅行の夜から半年ほどが経った今、まさか美衣子と2人きりで放課後に、吐息が触れ合いそうな距離に顔を近づけているなんて、想像もしなかった。
修学旅行の夜、たった1時間程の仲になるのだろうと思ったのに、こうやって終業式の日に、放課後に教室で2人だけになれるなんて思ってもみなかった。外から聞こえてきたはずの元気な運動部の声もまったく気にならなくなるほど茉那は美衣子との時間に浸っていた。
淡々とメイクの作業を進めていく美衣子の前で、茉那はいつもよりもずっと速い脈拍を感じながら、鼓動を落ち着かせるためにできるだけゆっくりと呼吸をして、静かに目を閉じて完成を待っていた。できるだけ、自分の唇に触れる美衣子の柔らかい指先のことを意識ないようにして。
「終わったわよ、茉那」
美衣子の声を聞いて、茉那がゆっくりと目を開けた。教室の窓から入ってくる初春の太陽の光が眩しくて、数回連続して瞬きをしていると、次第に明るさにも慣れてきた。
美衣子に借りた鏡を使って茉那はゆっくりと自分の顔を見る。その瞬間、室内にいるはずなのに強い春の風に体を撫でられた気分になった。まるで自分の髪の毛や制服がバサバサと靡いているように感じられる。そのくらい、茉那は自分の中で何かが良い方向に変わろうとしているのを感じた。
元々美衣子は最低限のメイクしかしていないと言っていたから、そこまでの変化なんて期待していなかった。確かに、見た目に関しては茉那の予想通りそこまで大きくは変わっていなかったのかもしれない。
だけど、鏡に映っているのは毎日のように見ている地味な茉那自身の姿であるはずなのに、どこかいつもよりも素敵に見えた。味気ない自分を美衣子が素敵に彩ってくれたような、そんな気分になる。
もちろん美衣子や灯里よりも自分はいけていないということは分かっているけど、それでも何か変われた気がする。見た目よりも、中身の方で茉那は大人になれたような気がして嬉しかった。
美衣子のおかげで、茉那は新しい自分になれる気がした。外から見える、芽吹きかけている草花や木々も茉那の新しい姿を祝福してくれているように感じた。
そのくらい、茉那にとっては嬉しい気分だった。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
美衣子が先に立ち上がり、茉那の方に手を差し出した。茉那はその手を取って、ゆっくりと立ち上がる。今日はこの手をずっと離さないでおこうと思い、茉那はギュッと美衣子の手を握りしめた。
そんな茉那の気持ちを汲んでか、美衣子は茉那の方を見て微笑んでから茉那の手を握る力を少し強めた。今、茉那は美衣子と2人だけの世界に浸っている。
だけど、そんな甘くて優しい世界はすぐに崩れてしまった。
2人で手を繋いで帰ろうと思って教室を出たところに現れた影を見て、茉那は反射的に美衣子の後ろに隠れてしまう。慌ててしまったせいで、自分から美衣子の手も離してしまった。
スラリと背の高いモデルみたいな綺麗な少女が、いつものように冷たい目で、美衣子の後ろから身を隠して様子を伺っている茉那のことを一瞥した後、すぐに美衣子の方に視線を向けた。せっかくの嬉しい気持ちが灯里と遭遇したことによって一気に吹き飛んでしまう。
もしかして、メイクをしてもらっているところを見られてしまったのだろうかと思い、茉那の心は不安でいっぱいになる。
今は美衣子は灯里と絶交しているけれど、だからと言って、美衣子が茉那にメイクを施していたところを見られてしまえば、また激昂しかねない。
だけど灯里は、美衣子の方を少し寂しそうな視線を向けて見つめていただけだった。茉那の方に怒りの感情を向けていないということは、メイクをしていたところは見ていなかったと思っていいのだろうか。
茉那の考えをよそに、気まずい雰囲気の中で灯里が口を開く。
「そんなにわたしのこと避けなくても、教室にタオル忘れたから取りにきただけよ。……それと、美衣子は今日中に職員室に課題を持っていかないといけないんじゃなかったかしら」
灯里の言葉をそのまま信じると、灯里は忘れ物を取りに来て、ついでに美衣子が出し忘れていた課題を出した方が良いと教えに来てあげたということらしい。
美衣子はそれをすんなりと信じた。
だけど、それにしてはあまりにもタイミングが良すぎないだろうか。ちょうど茉那と美衣子が教室から出ようとドアから出た瞬間に、灯里が戻ってきていたなんて……。
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