7版 丸の内OL

 約束の時間を過ぎた。


 桃果は、机上のデジタル時計が、午前一時十分になったのを見計らって、マウスで更新ボタンをクリックした。

 編集ソフトの原稿ファイルフォルダ。中心でクルクルと渦を巻いたマークが出る。数秒でファイルの一覧が更新された。新規原稿を表す〈New〉という赤文字の点滅はない。まだ原稿は来ていない。


 大きく嘆息して桃果は席を立つ。背に刺すような視線を感じていた。河田かわだだ。その視線を押し返すように河田に告げる。


「マル特を催促してきます!」


「おうよ!」


 桃果を後押しするように片手を挙げる。


 編集フロアを走る。女子なら誰もが憧れる丸の内で働いている正真正銘の「丸の内OL」だ。


 ──なのに、なぜか私は今、深夜に丸の内で走っている。


 その現実を嗤う。


 目指すは数十メートル先の企業部デスクの島である。射程圏内。目指すべきデスクの柿沼かきぬまのがっしりとした後ろ姿を既に捉えていた。後ろからでも原稿と必死に格闘しているのが分かる。至近距離まで近づくと減速し、背後からチラリと画面を覗く。

 原稿を編集中。仮見出しには〈富国通商〉の文字が見えた。


 ──間違いない。マル特だ。


「柿沼デスク、一時十分を過ぎました。原稿を早く投げてください」


 桃果は息を切らしながら告げる。一瞬、柿沼の指の動きが止まったが、返事はない。画面を見たまま振り向きもしない。


 ──やっぱり、この人は整理部舐めている。いや、私を見下している?


「柿沼デスクぅ!」


 声を張り上げる。それに驚き、柿沼がビクンと跳ね上がった。


「はいはいはい、わかったよ。今、出したァ!」


 苛立たしげに柿沼は返す。先ほど河田に詰められていた男とは思えない横柄さだ。


 ──舐められているな。


 意趣返しとばかりに、今度は桃果が何も反応せず、踵を返す。自席までまた走る。息を切らしながら、

 一面席まで戻ると、椅子に尻をダイブさせた。

 机上のデジタル時計は、午前一時十二分四十秒。全身で息をしながら、編集ソフトの更新ボタンを押す。だが──。

 そこに原稿はない。更新ボタンを再度押す。やはりない。


 ──クソ。やりやがった。はかられた。


 柿沼は時間稼ぎのために、原稿を出したと嘘をついたのだ。


 ──甘かった。原稿を出す瞬間をちゃんと見届けるべきだった。


 1面デビュー早々、洗礼を浴びる。再度、桃果が腰を浮かした瞬間だった。


「柿沼ァ、おどれ。今、何時と思っとんじゃ、ボケェ! 早よ原稿ださんかぁコラァ!」


 河田のドスの利いた広島弁。フロア全体を水を打ったように静める声質と声量が、数十メートル先の柿沼の背を閃光のように貫く。


 その瞬間、端末が点滅する。原稿がヒョイっと、入り込んできた。


「原稿、来ましたぁ」


 桃果は嬉々として叫ぶ。


 ──こういう時の河田デスクは本当に心強い。


「おうよ!」


 河田は笑みで返す。

 デジタル時計は午前一時十二分五十五秒。桃果は脳に酸素を行き渡らせるように息を吸う。それからマル特原稿を掴んで、画面上の紙面に流した。


 ──行数はいかに?


「えっ……⁉︎」


 息が止まる。足らない。行数が全然足らない。

 慌てて、編集ソフト上に表示された行数を確認する。

 表示は三十五行。


 ──さっきの「プレゼン」は何だったの?あの時は、五十行って言ったじゃん。


 十五行の穴である。


 ──これを埋めるために、紙面のレイアウトを再度組み直しすべき?


 原稿に目をやる。数行読んだ瞬間、スーっと血の気が引く。


 ──嫌なものを見ちゃった。


 そんな表情に変わるのが自分でも分かった。


 彷徨った視線が机上のデジタル時計を捕える。一時十三分四十秒。降版まではあと十六分。刻々と迫るデッドライン。

 桃果には今、机上のデジタル時計が、時限爆弾にしか見えなかった。

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