包丁くんと話そう!②

 闇鍋町やみなべちょうの極東。町と山のちょうど境界線上に建つ木造のボロアパート・並々荘なみなみそう

 その一〇三号室が、俺の新しいねぐらになった。

 たまに隙間風が寒くて、たまに虫が大量発生して、たまに空調が故障して、たまにミシミシと不吉な音が鳴って、たまに女の霊っぽい何かが見えることがあるが――うむ、好物件である。


 薄目で見れば築五年も築五十年も、大して差は無いよな、うんうん。

 贅沢は言わないさ。

 快適快適。

 快適と思い込めば、快適なのである。

 五十山田いかいだイスキ、二十八歳、無職、独身。

 今日もなんとか生存中。


 闇鍋町へ引っ越してきてから一週間が経過したが、大きな事件も無く、至って人並みの生活を送っていた。カオスな町だと聞いていただけに拍子抜けだったけれど、まぁ、平穏ならば文句はない。少なくとも、都会にいた頃よりはマシな生活だ。


 ……ただ一点、目をらせない問題もある。

 冷蔵庫の中の食料が、底を突きそうなのだ。


 いや、そもそもの話をすれば、職も金も無い現状が根本的な問題なのだけれど……それはそれとして。

 とりあえず、冷蔵庫を開けてみる。

 中には――調味料が数種類と、食パンが一枚。

 以上、である。

 ……どうするかなぁ。


 残った唯一の希望である食パンも、三日前に消費期限が切れている。少しずつ千切りながら空腹を誤魔化すのも、そろそろ限界だろう。

 いい加減、アルバイトでも始めないとマズいか。

 いつまでも極貧生活を続けるわけにもいかないしなぁ……。


 ひとまず、今日の夕飯はこの食パンで乗り切るしかない。いつも通りコレを二十等分に切り分けて、ゆっくり咀嚼そしゃくすることにしよう。

 ふむ。砂糖、塩、醤油、味噌は、少しずつ残っている。これなら、食パンの味変あじへんを楽しむことくらいは出来そうだ。


 パンをまな板の上に乗せ、包丁を構える。

 こうして台所に立つと、自炊をしている気分にはなるが……実際は、おままごとみたいなものだ。

 まな板は、段ボールを三重に組み合わせただけ。包丁も、百均で購入した安物のフルーツナイフである。小学生でも扱えそうな、セラミック製の手頃なやつだ。せめて、まな板ぐらいは買うべきだろうけれど、なるべく出費は避けたい——段ボールで代用できるならば、それに越したことはないのだ。


 とても他人様には見せられないが、パンをサイコロ状に切るだけであれば、充分。俺には高い包丁もまな板も、必要ない。

 これが、男の料理ってやつだぜ。

 ……いや、本当は欲しいけどね、まな板。

 まな板のお下がり、募集中でーす。


「……ん?」


 違和感。

 パン――ではなく、包丁のほうに。

 俺はいつも通り、パンを二十等分したはずだった。等しく二十回に分けると書いて、二十等分。縦に四回、横に三回、切り込みを入れるだけの、単純作業である。

 だが、失敗していた。

 パンには、一筋の切り込みすら入っていない。


「というか……包丁、これ、どうなってんの……」


 ペラン。

 ペロンペラン。


 包丁からそんな擬音が生じることは、あり得ない。百均包丁でも、包丁は包丁だ。ペランペランと、紙をめくるような音が鳴るはずがない。

 だが、現に、この包丁はすっかり柔らかくなってしまっている。なまくらどころの話ではない。すでに、包丁としての機能は完全に失われてしまった。。


 試しに、刃先をツンツンと触ってみる。

 ……フニャフニャだ。

 感触としては、バナナの皮に近いかもしれない。


「なぁ、キミ。僕はいつまでパンを切り続ければいいんんだ?」


 耳に心地の良い、クリアな美声。何やら声色は沈んでいるようだが……もしかすると、俺の部屋に爽やか系美男子が迷い込んでしまったのだろうか。


「僕、もうパンなんて切りたくないよ。はぁ……」


 いや、そばに他の人間の気配は無い。

 声の出所を探す――手元。

 手元だ。

 フニャフニャで使い物にならなくなった包丁から、やけに綺麗な美声が聞こえてくる。


「……あのぅ」

「はい?」

「もしかして包丁さん……ですか?」

「そうだよ。見れば分かるだろう?」

「…………」

「あと、包丁さん、なんて水臭いじゃないか。せめて、『くん』付けで呼んでおくれよ」


 闇鍋町に引っ越して、一週間。

 僕が初めて言葉を交わした『モノ』は、百均で購入したフルーツナイフだった。

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