包丁くんと話そう!②
その一〇三号室が、俺の新しい
たまに隙間風が寒くて、たまに虫が大量発生して、たまに空調が故障して、たまにミシミシと不吉な音が鳴って、たまに女の霊っぽい何かが見えることがあるが――うむ、好物件である。
薄目で見れば築五年も築五十年も、大して差は無いよな、うんうん。
贅沢は言わないさ。
快適快適。
快適と思い込めば、快適なのである。
今日もなんとか生存中。
闇鍋町へ引っ越してきてから一週間が経過したが、大きな事件も無く、至って人並みの生活を送っていた。カオスな町だと聞いていただけに拍子抜けだったけれど、まぁ、平穏ならば文句はない。少なくとも、都会にいた頃よりはマシな生活だ。
……ただ一点、目を
冷蔵庫の中の食料が、底を突きそうなのだ。
いや、そもそもの話をすれば、職も金も無い現状が根本的な問題なのだけれど……それはそれとして。
とりあえず、冷蔵庫を開けてみる。
中には――調味料が数種類と、食パンが一枚。
以上、である。
……どうするかなぁ。
残った唯一の希望である食パンも、三日前に消費期限が切れている。少しずつ千切りながら空腹を誤魔化すのも、そろそろ限界だろう。
いい加減、アルバイトでも始めないとマズいか。
いつまでも極貧生活を続けるわけにもいかないしなぁ……。
ひとまず、今日の夕飯はこの食パンで乗り切るしかない。いつも通りコレを二十等分に切り分けて、ゆっくり
ふむ。砂糖、塩、醤油、味噌は、少しずつ残っている。これなら、食パンの
パンをまな板の上に乗せ、包丁を構える。
こうして台所に立つと、自炊をしている気分にはなるが……実際は、おままごとみたいなものだ。
まな板は、段ボールを三重に組み合わせただけ。包丁も、百均で購入した安物のフルーツナイフである。小学生でも扱えそうな、セラミック製の手頃なやつだ。せめて、まな板ぐらいは買うべきだろうけれど、なるべく出費は避けたい——段ボールで代用できるならば、それに越したことはないのだ。
とても他人様には見せられないが、パンをサイコロ状に切るだけであれば、充分。俺には高い包丁もまな板も、必要ない。
これが、男の料理ってやつだぜ。
……いや、本当は欲しいけどね、まな板。
まな板のお下がり、募集中でーす。
「……ん?」
違和感。
パン――ではなく、包丁のほうに。
俺はいつも通り、パンを二十等分したはずだった。等しく二十回に分けると書いて、二十等分。縦に四回、横に三回、切り込みを入れるだけの、単純作業である。
だが、失敗していた。
パンには、一筋の切り込みすら入っていない。
「というか……包丁、これ、どうなってんの……」
ペラン。
ペロンペラン。
包丁からそんな擬音が生じることは、あり得ない。百均包丁でも、包丁は包丁だ。ペランペランと、紙をめくるような音が鳴るはずがない。
だが、現に、この包丁はすっかり柔らかくなってしまっている。なまくらどころの話ではない。すでに、包丁としての機能は完全に失われてしまった。。
試しに、刃先をツンツンと触ってみる。
……フニャフニャだ。
感触としては、バナナの皮に近いかもしれない。
「なぁ、キミ。僕はいつまでパンを切り続ければいいんんだ?」
耳に心地の良い、クリアな美声。何やら声色は沈んでいるようだが……もしかすると、俺の部屋に爽やか系美男子が迷い込んでしまったのだろうか。
「僕、もうパンなんて切りたくないよ。はぁ……」
いや、
声の出所を探す――手元。
手元だ。
フニャフニャで使い物にならなくなった包丁から、やけに綺麗な美声が聞こえてくる。
「……あのぅ」
「はい?」
「もしかして包丁さん……ですか?」
「そうだよ。見れば分かるだろう?」
「…………」
「あと、包丁さん、なんて水臭いじゃないか。せめて、『くん』付けで呼んでおくれよ」
闇鍋町に引っ越して、一週間。
僕が初めて言葉を交わした『モノ』は、百均で購入したフルーツナイフだった。
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