第297話 「贖罪」
アーロンと【邪神】たちが戦う戦場へとルシアが転移する数分前。
クロノスフィアと数多の偽女神たちに勝利したルシアたちは、クロノスフィアの消滅によって解除された【世界断絶】の空間から脱出していた。
空と雲と鏡のような湖面ばかりが広がる空間で、泣き腫らした目のクロエが、「――ぇ?」と、小さく声を漏らす。
そんなクロエを心配そうに見つめていたエイルたちが、その変化に気づいた。
「クロエ、目が……!!」
「むっ!? クロエ嬢、まさか、空間魔法が……?」
それまで金色だったクロエの瞳が、すぅっと色を変えていく。
金色から、何の変哲もない黒へと。
愕然とした顔で、クロエが呟く。
「は、はい……使えません……空間魔法が……」
「それはそう」
クロエたちの疑問に答えたのはルシアだ。
「クロノスフィアが消滅したいじょう、【小神界】も消滅したはず。四家のブレイン・サポート・デバイスをこうちくしていたのは【小神界】の機能だから、【小神界】がうしなわれたら、デバイスも消滅するのはとうぜん」
それはつまり、もはや【封神四家】から空間魔法の力が失われてしまったことを意味していた。
「待ってください。ならば、ルシア様とノア様の瞳が金色のままなのは、なぜです?」
ローガンがルシアとノアの――いまだ金色のままの瞳を順に確認して、問う。
今度の問いに答えたのは、ノアだ。
「ふむ……それはたぶん、ルシア様には【邪神の右腕】があって、僕には【邪神細胞】の組織が移植されているからだろうね。【邪神】の細胞組織が、ナノマシンを維持しているんだろう」
今のルシアの肉体は、アイクルの体と【邪神の右腕】が融合したものだ。
そしてノアには、培養された【邪神細胞】の組織が移植されている。
クロノスフィアの【小神界】が消滅しても、二人が未だ金眼を保っているのは、それら【邪神細胞】のおかげだった。
「なるほど。では、お二人はまだ空間魔法が使え――――!?」
イオがルシアたちに力の有無を確認しようとした時、更なる異変が彼らを襲う。
それはクロエが空間魔法を失った以上の衝撃を彼らに与えた。
「なん、だ――!?」
「おい……おいおい! マジかよ!?」
「何ですの!? 力が抜けて……!!」
「ちょッ!? げ、限界印がある奴らは手の甲を確認するっス!!」
「まさか!? 嘘だろ!? ジョブが消えた!?」
戦闘を終え、束の間の休息を享受していたクランメンバーたちが慌てふためく。
滅多なことでは冷静さを失わないローガン、イオ、エイルたちも、顔面を蒼白にしていた。
「ジョブが消えた……!? スキルも使えないぞ……!?」
「まさか……ルシア様、これは……!?」
ジョブが消えた。
それが示すのは、一つしかない。
ルシアも瞳を動揺に揺らしながら、頷いた。
「まずい……っ!! たぶん、フィオナが【邪神】にとりこまれた……っ!!」
その言葉に、クランメンバーたちは阿鼻叫喚となった。
「ルシア様、それは、アーロンが【邪神】に負けたということですか!?」
「おいおいおいッ!! マスターが負けたってのかよ!?」
「そんな馬鹿な!? 親方が負けるなんて……!?」
「や、やっぱりあの男にお姉さまを任せたのが間違いだったんですぅっ!!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃねぇだろ!? 親方たちを早く助けに行かねぇと!!」
「助けに行くとは言っても、今の我輩たちは戦力にならんぞ!? それにジョブが失われたとなれば、如何にマスターとてどうにもならん! 今から助けに行ったところで、とても生きているとは……ッ!!」
「じゃあどうすんだよ!? このままここで待ってろってか!?」
「皆のもの落ち着くでござるッ!! 今は冷静になって対応策を――!?」
――と、そこで更なる問題が発生する。
クランメンバーたちの周囲。
風もないのに不自然に湖面が震え、あちらこちらに、幾重にも同心円状の波が立つ。
「嘘だろ……?」
という声には、色濃い絶望が宿っていた。
「まさか、リポップすんのかよ……!? あの空間を出たから!?」
「やはりそうなったか……!!」
イオが険しい顔で周囲の波紋を睨む。
クロノスフィアが発動していた【世界断絶】。その内部に出現した偽女神たちは、予め湖面の下に隠れていたのだろう。そしてだからこそ、内部で偽女神たちを倒しても、新たにリポップすることはなかった。迷宮と空間的に隔絶していたからだ。
しかし、元の空間に戻ってきたことによって、ローガンたちを侵入者と判断した迷宮が、新たな偽女神たちを生み出す。
ゆっくりと、湖面の下から偽女神たちが浮かび上がり、静かに宙へ浮かび始める。
「嘘だろおい勘弁してくれよッ!?」
「ど、どうすれば良いんですかこれ!? このままじゃ全員殺されちゃいますよ!?」
「お姉さまと会えないまま死ぬなんてやだぁああああっ!!」
「こいつはもう、ダメかもしれんな……!!」
「こんなところで人生終了とはな」
「ふっ、ボクのお姫様たち……死ぬときは、一緒だよ?」
「ちょっ、グレン! 諦めんなし!!」
「ぬぅううんっ!! ここは拙者たちに任せて、皆のものは先へ行くでござるっ!!」
「むぅ……っ!!」
恐慌に陥るクランメンバーたち同様、ルシアも顔を強張らせて、呻いた。
今、この場で戦えるのは自分とノアの二人のみ。そして付け加えるならば、おそらくノアは大きく弱体化しているだろう。自分は【邪神の右腕】と融合しているが、ノアは培養した組織片を移植しているに過ぎない。まともに魔法を発動できるかどうかも怪しかった。
つまり、仲間たちを守るには、自分はここを離れることができないのだ。そして自分が残っても、全員を守りきれるかは分からない。
一方、アーロンやフィオナたちが最悪中の最悪の状況になっているかは分からないが、それでも今の状況に対抗するためには、自分が【邪神】のもとに出向くのは必須。
だが――と、事実上、行動を封じられて、ルシアは動くことができなかった。
そんなルシアの肩が、ぽんっと叩かれた。
振り向くと、妙に穏やかな笑みを浮かべたノアが、こちらを見下ろしている。
「――ノア?」
「ルシア様、ここは僕に任せて、あなたは為すべきことをしてください」
「でも、どうするつもり? いまのノアは――」
「大丈夫」
ノアは弱気な言葉を遮り、リングから一本の注射器を取り出した。
その中にはすでに鮮烈なほどに赤い薬液が封入されている。
「まさか……濃縮
秘密結社クロノスフィアの『適合者』たちに配られていた「活性剤」――それよりもさらに赤い色をした薬液を見て、ルシアはその正体を看破する。
――「濃縮活性剤」
それは四家の適合者のために作られた、特別な活性剤だ。
というのも、他の『適合者』たちとは違い、四家の『適合者』は「活性剤」の服用を必要としない。なぜなら最初から、移植された【邪神】の組織片が活性化状態にあるからだ。
実際、先のスタンピードでも、ノアを含めた四家の『適合者』たちは、誰も「活性剤」を服用していなかった。
――そもそも「活性剤」の原料は、四家の者の血液なのだから。
しかし、濃縮された「活性剤」ならば、四家の『適合者』にも更なる力を与えることができる。
ただし……、
「それを使ったら、ノアはしぬ」
「承知の上です」
すでに活性化している【邪神】の組織を、さらに活性化させるということは、組織の暴走を招く。
暴走した【邪神】の組織は複製と増殖を繰り返し、正常な組織を破壊しながら人体を侵食する。
すなわち、「濃縮活性剤」を服用すれば、その者には確実な死が訪れる――ということだ。
それを解った上でなお、ノアの顔には微塵の恐怖も浮かんではいなかった。
「……エヴァを助けるためだったとはいえ、できるだけ社会にとって害のある人間を選んでいたとはいえ、僕は少し、手を汚しすぎました」
散っていったアイクルの姉妹たち。『適合者化施術』の手法を確立するまでに犠牲となった者たち。人為的にスタンピードを起こすため、迷宮に捧げた者たち。スタンピードで命を落としたネクロニア市民たち……。
「贖罪の機会は必要だろうとは、思っていました。それに、いずれにせよ、【邪神】を放っておけばエヴァも死ぬ。なら、僕の命はここで使います」
「待っ――!!」
言って、止める間もなく、ノアは自らの首筋に注射針を刺すと、プランジャーを押し込んで薬液を注入した。
……もう、後戻りはできない。
「ルシア様、あなたも為すべきことを為してください」
「……わかった」
悲しげな顔で、ルシアは頷く。
「それから……アイクル、君には酷いことをしてしまった。すまない……」
ノアはルシアの頭を――いや、アイクルの頭を優しく撫でた。
「僕が言えた義理ではないが、君は生きて、幸せになりなさい」
「…………うん、ノアさま」
舌足らずな声が答える。
それに頷いて、ノアは彼女の頭から手を離した。
「ルシア様、ここは結界で閉じます。……お早く」
「……ん。ノア……ばいばい」
小さく告げて、次の瞬間、ルシアの姿が消える。
その直後、ノアは声を張り上げた。
「死にたくなければ全員、一ヵ所に集まれ!!」
「――!? ノア様!?」
「集まれったって、どうするつもりだよ!?」
「固まってたって殺されるだけだろぉッ!?」
「あれ!? っていうかルシア様は!?」
「もうダメだ!! 全員でバラバラに逃げよう!!」
「ええいっうるさいっ!! この僕が守ってやるって言ってるんだ!! 結界を張りやすいよう一ヵ所に固まれッ!!」
「「「お、おうっ!!」」」
全身が燃えるように熱くなる。
ノアの側頭部から、赤と黒の禍々しい角が生え、周囲に熱を放散した。
異能――『
その姿を見て、さすがに経験豊富なクランメンバーたちはそれ以上の文句を言わず、すぐに一ヵ所に集まった。
そこへリポップし終えた百体近い偽女神たちが、一斉に【空間断裂刃】を放つ。
対し、ノアはローガンたちとクランメンバー……自分を除く全員を囲むように、結界を展開した。
空間魔法――【断界結界】
己に向かって来る偽女神たちの攻撃をも、【空間障壁】で当然のように防ぎ切り、ノアは周囲の偽女神たちに向き直った。
「さて……僕が限界を迎える前に、何とかしてくださいよ、ルシア様。じゃないと全員、死んじゃいますからね」
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