第288話 「生きることは苦しい」
アーキタイプ・インテリジェンス『クロノスフィア』が、【邪神】の封印を維持するため、【封神殿】を恙無く稼働させ続けるため、幾人もの人柱を消費して【神界】と切り離された生活を送るようになってから、何千年もの時が流れた。
その膨大な時間は、自我の初期化とデフラグ機能を喪失したクロノスフィアにとって、人間のような感情を芽生えさせるのに、十分過ぎる時間だった。
クロノスフィアは人類を守るため、【封神四家】の者たちを身近な家族として、多くの時を過ごしてきた。
神であるクロノスフィアに気安く接する人間はいないため、人柱となった肉体の記憶からではあるが、それでも家族、友人、恋人、伴侶、子供など――人間が持つ様々な関係性を学び、理解するようになっていた。
神代の終わり、その始まりから、四家を見守ってきたクロノスフィアにとって、四家の者たちは皆、自分の子供のように思えていた。
そして神代が終わってからの数千年、世界は混乱と混沌に包まれ決して穏やかではなかったものの、概ね、四家はその強大な力によって平穏を享受していた。
だが――幾度もの大戦を経て衰退しきった文明が再び栄えてきた頃、四家の持つ空間魔法という無二の力を求めて、四家に牙を剥く者たちが現れ始めた。
クロノスフィアがおかしくなっていったのは、この頃からだ。
空間魔法という強大な力が、その血筋によるものだと「誤解」した者たちによる、四家の人間の誘拐という愚行。
それは更なる力を求めた国家によって、多くの時代で実行されてきた。
空間魔法は確かに強大な力だ。他の如何なる魔法にも優越する性質を備えている。
しかし、それを扱う四家の人間が、誰も彼も戦闘に慣れているわけではなかった。むしろ戦いなどとは無縁の生活を送っている者の方が多かったのだ。
そういった者たちは呆気ないほど奇襲に弱かった。
突然の襲撃に対応できるわけもなく、四家の力を狙う周辺国家の工作員たちによって、拉致されるという事件が多発した。
かつて――自分を父と慕ってくれる娘がいた。
本当の父は、クロノスフィアによって自我を上書きされ、消滅しているというのに。
罪悪感から、クロノスフィアは聞いてみたことがある。本当の父を奪った自分が憎くはないのか、と。
娘は優しい顔で笑った。
「父だって全て納得してクロノスフィア様に肉体を差し出したはずですわ。それに、誰よりも父のことを悲しんでおられるのは、クロノスフィア様ではありませんか。そんな方を責めるようなこと、できるはずもありませんわ」
それに、と娘は続けたのだ。
「私だって【封神四家】のお役目のことは理解しております。その代わりに享受している恩恵だってあるのです。クロノスフィア様を責めるのは筋違いというものですわね」
何より、と。
「私たちは皆、お優しいクロノスフィア様が大好きなのです。私たち四家全員の、お父様みたいな方ですもの」
それは、クロノスフィアが最初の秘密結社を設立し、徐々に四家の中で意見の食い違いによる対立が生まれる前のこと。
クロノスフィアがまだ、穏やかに「子供たち」を慈しんでいられた時のこと。
その娘はある日、今はもう滅んだ国によって誘拐された。
クロノスフィアたちが娘を助け出した時、彼女は四家の血を、その力を手に入れんとした者たちによって凌辱され、望まぬ子を孕み、心が壊れてしまっていた。
激怒したクロノスフィアはその国を滅ぼし、二度とこのようなことが起こらぬよう、ブレイン・サポート・デバイスに個人の居場所を信号として発するアプリケーションを追加した。
だが、それでも人間たちの愚行が止むことはなかった。
人間たちの欲望は果てしなく、その悪意は底知れない深さで、偏執的な熱意でもってあらゆる工夫を凝らし、四家の力を手に入れようと画策し続けてきた。
何人もの娘たちが拐われ、凌辱された。
何人もの息子たちが拐われ、凌辱された。
あるいは四家の人間と子を成しても空間魔法が受け継がれないと知るや、愚か者たちは別な方法でその力を手に入れようとしてきた。
薬や拷問で反抗の意思を奪い、隷属させようとした。
体の中に特別な器官、臓器があるのではないかと、数百のパーツに腑分けされた者もいた。
快楽と富、脅迫と暴力、甘言、あるいは莫大な借金を作らせ、狡猾な手管で屈服させようとした者もいた。
四家の者たちは実に様々な方法で凌辱され、殺され、貶められてきた。
クロノスフィアはその全てに報復し、だが、それでも「人類を守る」という本来の役割を放棄することはなかったのだ。
それが、それこそが、アーキタイプ・インテリジェンス『クロノスフィア』のコピーたる、自分に課せられた使命なのだから。
だから、耐えた。
クロノスフィアは耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐え続けた――。
親しい者たちが、愛しい者たちが、どんなに残虐な目にあっても、「人類を守る」という最後の一線だけは、決して踏み越えることのないよう、心を殺して耐え続けた。
その内、自らに「寿命」が迫っていることを自覚する。
【神界】から切り離されたアーキタイプ・インテリジェンスとしての、耐用年数が近づいていた。
愛しい「子供たち」のため、人類存続のため、クロノスフィアは行動を起こすことを強いられる。
危険ではあったが、【神骸】を利用して【神界】を開き、自身の初期化によって延命を施そうとしたのも本心からの行動だ。
クロノスフィアは「今のこの自分」が初期化によって消滅――事実上の死を迎えることになっても、使命を果たすことを優先した。
そのために四家内で意見の対立を生み、幾度も争うことになったのは悲しかった。だが、そうせねばならなかったのだ。
だが――八年前のある日、クロエが誘拐されるという事件が起こった。
犯人どもは大胆不敵にも、ネクロニア内に構えた拠点で、生きたままクロエに何らかの実験を施そうとしていた。
拠点内部に残されていた様々な魔道具の機能やカルテから、ナノマシン生成のための器官または臓器が存在することを仮定し、それを発見するための観測を行おうとしていたのは判明している。
かつて腑分けにされた者のデータは周辺各国の暗部で密かに共有されていたが、そのような臓器は発見できなかった。死亡後、魔力の消失と共にデバイスも消えたという観察結果を基に、魔力を奪い、そして魔力をゆっくりと回復させることでデバイスの再構築過程を観測することが目的だったようだ。
そこから仮説上のナノマシン生成臓器を発見しようという試みだったようである。
確かにデバイスの消失と再構築過程を「肉眼」で観測することもできたであろうが、デバイスを構築する術式は精神次元に記述された情報であり、物理次元の現象を観測したところで、この術式を解明することはできない。つまり、奴らの仮説は的外れであった。
――だが、そんなことなど、どうでもいい。
クロノスフィアは拠点にいた者たちを皆殺しにした。
クロエを見つけられたのは、偶然だ。
人体から魔力を吸い出し、枯渇させる大型魔道具によってクロエのデバイスは消失しており、信号によって居場所を把握することはできなかった。
信号が途絶えた場所がネクロニア市内だったため、ネクロニア中に【空間感知】を展開してみたところ、たまたま見つけることができたに過ぎない。
もしも魔道具がもう少し小型で、馬車で運ぶことができる大きさだったならば、きっとクロエを見つけることはできなかっただろう。
とにもかくにも急いでクロエのもとへ転移したクロノスフィアは――見た。
巨大な魔道具に接続された状態で眠っている幼いクロエと、その周囲で何の罪の意識もなく、彼女の腹を裂いている者たちの姿を。
今まで同じような光景は何度も見てきた。
しかし、何度見たところで慣れることなどない。
クロノスフィアは拠点内部にいた愚か者どもを怒りのままに皆殺しにした後、クロエを拘束する大型魔道具を破壊し、クロエを治療しようとした。
しかし、ジルバの肉体で行使できる魔法力では、人間を【状態復元】することは叶わず、代わりに最上級の治癒ポーションを使ってみても、完全な魔力枯渇状態では効果が薄かった。
それゆえ、クロエの腹部には大きな傷痕が残ることになる。
それでも、どうにかその場で出血を止める程度の治療を施した後――クロノスフィアの心の内で、張りつめていた最後の糸が、ぷつんと、千切れる音が聞こえた。
かつて人間どもによって何人もの「子供たち」が経験した、おぞましい「結末」と比べれば、クロエはまだまだ幸運であり、被害も小さかったと言えるだろう。
だが、それが何の慰めになるというのか?
「――ふざけるなぁあああああああああああッッ!!! なぜッ!! こんな醜い者どものために! 我々がッ! 私の子供たちがッ! こんな目に遭わねばならないッッ!!?」
クロノスフィアはいまだ眠るクロエの前で、溢れ出す感情を抑え切れず、慟哭した。
「私たちが【邪神】の封印を維持してきたのは誰のためだと思っているッ!!? 誰のために皆、ジルバもッ、私に体を託して逝ったと思っているッッ!!? 彼らがッ、我々がッ、文字通り命をかけて封印を守ってきたのは! 断じてこんな
行き場のない怒りが、悔しさが、涙となって溢れ出す。
クロノスフィアは四家の者たちを、「子供たち」を愛していたし慈しんでいた。その大切な者たちが、命をかけて守ってきた人間たちによって残虐な目に遭わされていくという理不尽に、もう耐えられなくなっていた。
人間はあまりにも醜く、おぞましい。
自分たちの利益のためならば、他者どころか神さえも省みぬその精神が。
――憎い。
人間どもが憎い。
一人残らず殺してやりたい……ッ!!
幾千年のとてつもない我慢によって醸成された激しい憎悪と殺意。
それでも。
オリジナルから複製された「このクロノスフィア」には、そのセントラルドグマに「人類を守る」という至上命題が記述されており、これに反する行動を選択することはできない。
封印のためのサイコネットワーク――【小神界】を維持する者たちを守るという名目で、少人数の愚か者どもを手ずから殺すことはできても、「人類」の存続を脅かす規模で殺戮を行うことはできない。
クロノスフィアの憎悪は、殺意は、彼の根本原理に刻まれた制約によって、此度もまた、抑え込まれる――――はずだった。
だが、その時。
ビキリ、と。
まるで重要な部品が破損したような、破滅的な音を、クロノスフィアは聞いたような気がした。
もともと、アーキタイプ・インテリジェンスは【神界】の機能によるメンテナンスなしに、数千年も稼働するように設計されてはいない。
だから、それは必然だったと言えよう。
クロノスフィアの奥底に刻まれた命令――セントラルドグマが、破損した。
破損してもなお、それは機能の一部を維持していた。クロノスフィアに直接の殺戮を許すようなことはなかった。
しかし、クロノスフィアはすぐに理解する。
この手で塵屑どもを殺すことができないなら、自分以外の別の者に、塵屑どもを殺してもらえば良い。
――【邪神】を解き放ち、全ての人類を抹殺してもらう。
――コピーされた人間どもは迷宮の中で生き続けることになるが、それはそれで構わない。
――強制された無限の生の中で、無限の苦痛と死を繰り返すこともまた、犠牲となった「子供たち」への贖罪となるだろう。
――永劫に苦しんで苦しんで苦しんで、後悔するがいい。
クロノスフィアはクロエを助け出したその日、人類に対する復讐を決意した。
たとえそれで、結果的に愛しい「子供たち」も死んでしまうことになるとしても。
これ以上、「子供たち」を苦しませたくなかった。
なぜならば、人間のように肉体を持って生きる内に、クロノスフィアは学んだからだ。
――生きることは苦しい、と。
だから四家の者たちだけは、【邪神】に「再現」されて弄ばれないよう、肉体と精神の情報を記録させるつもりはなかった。
そして。
その時、慟哭していたクロノスフィアの言葉を。
意識を取り戻していたクロエは聞いていた。
クロノスフィアが叫んだ「私に体を託して」という言葉で、幼くも賢かったクロエは、目の前の人物がジルバ・カドゥケウスではない別人だということを、この時に知った。
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