第233話 「私の命が、貴女を生かしますように」
――なぜかフィオナがエロい格好をして俺の部屋に来て、そして真面目な話をし始めた。
「ごめんなさい、アーロン」
それは謝罪から始まった。
どうも話を聞いているとフィオナは、俺に内緒で俺の過去を調べていたらしい。
色々思うところはあるが、俺の頭は徐々に冷静さを取り戻していった。フィオナが身につけているスケスケな衣装のことは、今は頭から追い出さねばならないと理解した。
さすがにフィオナに、こんなことを言われたら、嫌でも頭が冷える。
「ねぇ、アーロン……まだ、自分を許せないの? まだ……死にたいの?」
言って、横に座ったフィオナは、俺の手に自らの手を重ねてそっと握りしめた。
リオンとオーダン院長から話を聞いたのなら、当然、理解しているだろうな。
俺が、死にたいと思っていたことなど。自分自身を、殺したいほど憎んでいたことなど。
「そう、だな……」
フィオナの手の温もりを感じながら、改めて、考えてみる。
今の俺は、まだ死にたいと思っているのかを。
「二年前の、スタンピードの時……」
「うん」
自分の考えを纏めるように静かに話し始めると、フィオナはただ話を促すように、静かに頷いた。
俺は訥々と語りながら、考えを纏めていく。
「ジャックとライアンとルイス……以前にパーティーを組んでいたダチが、三人、死んだんだ」
「うん……」
「スタンピードでまだ都市が混乱している時、深傷を負ったリオンから、そのことを聞いた」
「…………」
「もちろん、アイツらが死んだことは悲しかったし、魔物どもに怒りも湧いた。だから俺は、できるだけ多く魔物をぶっ殺してやろうと思って、魔物の溢れ返る都市を【封神殿】に向かって、一人で進んでいった」
「うん……」
「でも、イグニトールやノルドや、その取り巻きどもを倒し終わって力尽きた時、俺は安心したんだ」
「……っ、……うん」
「あの時は我ながら、スタンピードの魔物をだいぶ討伐できたし、スタンピードの終息にも、だいぶ貢献できたんじゃないかってな。なら、俺が戦ったことで、死ぬはずだった何人かを助けることができたはずだって思った」
「…………そうね。それは間違いないわよ。アーロンのおかげで助かった人は、大勢いるはずだわ」
「ああ……それで、俺は自分の役目を果たせたと思った……。俺の姉ちゃんが、自分の命を捨ててまで守ってくれた俺の命を、ちゃんと意味のあることに使うことができたんだって、安心した。姉ちゃんがあの時、俺を守ってくれたから、このスタンピードで多くの人を助けることができたんだ。だから姉ちゃんの死は無駄なんかじゃなかったってな。だから……」
その先の言葉を口に出すのは、勇気がいった。
あの時、死にかけていた俺を救ったのは、フィオナに憑依したルシアだと言う。だが、フィオナがいなければ俺が助からなかったのも事実だ。
だからこそ、フィオナにこのことを言うべきか迷った。
だが、真剣に向き合おうとしているフィオナに対して、誤魔化すべきではないのだろうと、決意して口を開く。
「だからあの時、スタンピードが終わった後、俺は、自分が生きていたことに……がっかりした」
「…………っ」
俺の手に重ねられたフィオナの手に、一際力が入った。横を見なくても、フィオナが静かに泣いているのが分かった。
「あのスタンピードで擦りきれるまで命を燃やして、死ぬつもりだったんだ。あそこで、ジャックたちと一緒に死のうと決めてた。でも結局生き残っちまって、俺はどうしたら良いのか分からなかった……」
気力、というのが、全身から跡形もなく枯渇した経験をしたのは、あれが二度目だった。
ああいう経験をすると、生命力というか、生きる意思ってのが人間にとって重要なものだと、はっきり分かる。体の傷が癒えて肉体的には健康になっても、何かをしようという気力が一欠片も湧いて来なくて、全身が常に鉛になったような気怠さに襲われていた。
「まだ生きなきゃいけないのかって、絶望した」
そう。
俺はジャックたちが死んだことで、絶望したわけじゃないのだ。探索者なんだ。俺たち全員、死ぬことも仕事の勘定の中に入っていた。それは自分以外の誰か、仲間が死ぬこともそうだ。
スタンピードでアイツらが死んだことには、言葉で言い表せない悔しさがあった。悲しかったし、やるせなさもあった。だけど、アイツらが死んだことで絶望したわけじゃない。
俺はあの日、自分が死ねなかったことに絶望したんだ。
そして――――スタンピードが終わってしばらく経った頃、俺は迷宮に入ろうとした。
その時でさえ、自分で自分の命を絶つことには抵抗があった。それでもずっとずっと深くへ潜っていけば、仕方なく、健闘虚しくも、魔物に殺されてしまうだろうと分かっていた。……いや、そうなるまで、潜り続けるつもりだったのだ。
だが、そんな俺の前に、立ちはだかった奴がいた。
俺はふっと笑って、言う。
「まあ、結局……煩く絡んでくる奴がいたからな。死ぬ暇もなかった」
ぐすっと、鼻水をすすって、フィオナが憮然とした口調で言う。
「…………悪かったわね」
「…………いや、ありがとうな」
「え……?」
「おかげで死なずに済んだ」
「…………!!」
素直に笑って、そう言えた。
悪いなんてことはないのだ。
本当は、最初から気づいていた。
【封神殿】で俺の前に立ちはだかったフィオナの顔が――――きっと本人は気づいていないだろうが――――怒ったり、こちらを挑発しているというよりも、ひどく泣きそうな表情だったからだ。
何でかは分からないが、こいつが俺を救おうとしていることは、すぐに分かった。
フィオナはどこか、俺の姉に似ている。
気が強くて暴力的で、だが優しくて、誰かを助けようとしている。でも、やはり姉とは違うのだ。もしもあの時、【封神殿】にいたのが姉なら、問答無用で俺のことをぶっ飛ばし、ボコボコにした上で説教をかましたことだろう。
フィオナはそうじゃない。フィオナは姉じゃない。
だから――――俺がフィオナのことを好きになったのは、姉に似ているからではない。
不器用な優しさで俺を救おうとしているフィオナを見て、俺は可愛いと思ってしまった。
そしてすぐに気づいた。今まで数人と交際経験はあったが、そのどれとも違う感情があった。こんな感情は、今まで経験したこともなかった。
果たしてそれが恋という感情なのか、今も分からない。だが、俺の中でフィオナの存在は、他の誰よりも大きな存在になった。
「ああ……そうか、そうだな……」
気づいた。
あのスタンピードの後、いつの間にか絶望感が消えていたのは、時が心を癒してくれたからじゃない。
生きたいと、思うようになったからだ。
フィオナと生きたいと、ずっとそう思っていた。
そう思ったからこそ――――俺は、フィオナとこの家でほぼ同棲することになっても、フィオナに手を出せなかったのだ。
手を出そうと思えば出せたし、自惚れでなければ、フィオナも拒むことはなかったと思う。その機会は、幾らでもあった。
それでも、だからこそ、なのだろう。
好きな女と暮らしているのに、手を出すことができなかった――関係を進めることができなかった理由に――、
「俺は……俺を助けようとした姉を見捨てて、逃げたんだ……恐くて、自分だけが助かるために……」
――――ようやく気づいた。
気づいてしまった。
気づかない方が良かった。
今の俺が、何を恐いと思っているのかを。
「俺は、俺のことを信用できない」
気づいたからこそ、急速に心が冷めていくのが分かった。
たぶん俺は、四家から自宅に戻ってきたあの日の夜、ルシアがこの家にいなかったとしても、きっとフィオナを抱かなかっただろう。
もしも今の俺でもまったく太刀打ちできないような存在が、フィオナの命を狙った時、果たして俺は逃げずに戦えるのかと疑問に思うからだ。そして、ルシアは勝てると言ったが、【邪神】という存在がそうである可能性もある。
そして【邪神】が俺よりも強かった時、俺は逃げずに戦えるのか?
あるいは以前までのように、死に場所を探していたなら、何が相手でも戦えたかもしれない。だが、今はもう生きたいと思ってしまっている。それはつまり、死ぬのが恐いということなのだ。
俺は――フィオナのことが、好きだ。
フィオナのことが大切だから、フィオナを不幸にしたくない。
大切な人を見捨てて自分だけが逃げるような俺が、フィオナと一緒になっちゃいけない。
俺は恐いのだ。姉と同じように、フィオナも見捨てて逃げるかもしれない、自分が。
その考えは俺の根底にあって、自分で自分を信じられないからこそ、この考えを払拭することは、俺にはできない。だから――――、
「フィオナ、【邪神】を討伐できたら、もう、この家には来るな」
俺はそう告げた。
「……なによ、急に……どういう、意味……?」
平坦な声でフィオナが問うのに、答える。
「もう俺に関わるな」
「は……?」
「【邪神】討伐が終わったら、クランも解散する。……もう、俺たちは、会わないことにした方が良い」
「なん、でよ……?」
「…………」
生きたいから死ぬのが恐い。
なら、生きたいと思わなければ良い。
フィオナと生きる未来なんてものを、想像するから生きたくなる。だったらフィオナへの想いを捨てて、もう一度以前の自分に戻ろう。
死にたいと思っている俺なら、何が相手でも戦えるはずだ。
そして、【邪神】を確実に殺す。
自分が死ぬことになっても。
それが今度こそ、最後の、命の使い方で良い。
「なんで、なのよ……? 理由を、言いなさいよ……っ!!」
「……やっぱり、死にたいみたいだ、俺は」
曖昧な、まだ形の定まっていない、フィオナとの関係を壊すような言葉を告げた瞬間、全身から何かが抜けたようになる。
あるいは、重い何かが全身に絡みついたような。
(おいおい、マジかよ……元に戻るだけとか思ったが…………想像以上に、きついな……)
好きな女を諦める。
そんな経験をするのは、これが初めてだが……実に形容しがたい苦痛だった。
それでも、これで良いのだと自分に言い聞かせた。
「……………………」
長い沈黙。
「……………………そう」
やがて、冷たい声音でフィオナが言って、ベッドから立ち上がる。
そのままフィオナは、ゆっくりと歩き出し――、
――――ドンッ!!!
と。
俺の前に回り込むと、俺の両肩を強い力で押した。
「――――ッ!?」
突然の衝撃にベッドに仰向けに転がりつつ、声もなく驚く俺の腹の上に、フィオナが素早く馬乗りになった。
フィオナは俺の頭の横に両手をついて上から見下ろすと、真っ直ぐに俺の目を見つめて言った。
「アンタが死んだら、私も死んでやるから」
「は……? ――はあっ!?」
いきなりの言葉に、深刻な雰囲気がどこかへ吹き飛んだ。
「お前っ、冗談でも――」
「冗談じゃないから」
被せるようにフィオナは言う。
見上げたその表情には、確かに冗談を言っているような雰囲気は微塵もなかった。恐ろしく真剣な顔をしている。
「なんっ……!! いやっ、バカなこと言うなよ!?」
「…………」
「……おい」
フィオナはただ真っ直ぐに、こちらを見つめるだけだった。
その視線の強さに、言うべき言葉さえ失ってしまう。だから俺には、ただ理由を問うことしかできなかった。
「…………何で、お前がそんなことするんだよ」
「……私は、重い女なの」
「…………」
「好きな人は他の誰にも渡したくないし、諦めたくもない。私は私が幸せになるために、何も諦めない。アンタが嫌って言っても……私のことが、嫌いだって……っ、言ってもっ!! 私は絶対に諦めないっ!!」
「…………」
涙が、降ってきた。
「強欲なのっ、私はっ!! 私の幸せのためにっ、アンタには生きていてもらわなきゃいけないのっ!!」
「…………」
泣きながら、フィオナは、二年前のスタンピードの後の、あの時みたいな顔をしていた。
俺を必死に、不器用に、救おうとしていたあの時の。
「それにっ、何が自分を信用できないよ……っ!! 地下の【神殿】でっ、アンタはっ、自分が死にそうになった時もっ、私のことを優先したでしょうがぁっ!!」
地下の【神殿】……アイクルに殺されそうになった時のことか。
「アンタが昔逃げたとかそんなこと知らないわよっ!! 私が知ってるのはっ、こっちが心配するくらい自分の危険に無頓着でっ! 迷宮ではぐちぐち言いながらも私を守ろうとして気を張ってるアンタでっ! 無茶苦茶やってるのに仲間のことを本当は気遣ってるアンタで……っ!! 私のためにっ、四家にも楯突いたアンタで……っ!!」
「――――」
「私が知ってるアーロン・ゲイルはっ! 恐くて何かから逃げてるところなんて見たこともないっ、そういう人間よっ!!」
「…………そう、か」
すとんっと、胸に落ちた。
他の誰が言っても、きっと胸には響かなかっただろう。
だが、フィオナの言葉は、不思議と素直に受け止めることができた。
いつの間にか、俺はそういう人間になっていたんだと思ったら、胸の奥に凝り固まっていた何かが、綺麗に溶けて、消えた気がした。
「じゃあ、俺は……」
もしも俺が、自分のことを信用して良い人間になっていたのなら、俺はもう、好きに生きて良いんだろうか?
「俺は、生きてて良いのか……?」
「……っ! 当たり前でしょっ!!」
「違う。そうじゃなくて……」
俺が言いたいのは、そうじゃなかった。
「俺は、お前と一緒に生きてて、良いのか……?」
「――――!!」
フィオナが目を見開いた。
「…………っ」
やがて、うんっ、とフィオナが頷いて、大粒の涙が零れ落ちて俺の頬を濡らした。
「そう、か……そうか」
諦めなくて良いのだと思った。ただ一つ、心の底から本当に欲しいと思っていたものを。
「……なら、もう我慢はしないからな?」
「――ぇ?」
次の瞬間、俺は自分とフィオナの体勢を入れ替えた。
フィオナをベッドに仰向けに寝かせて、フィオナの横に左手をつきながら体を支えて、きょとんとしているフィオナを見下ろす。
そして――――俺は右手をフィオナの胸の上に乗せた。
胸の、その中央、ちょうど心臓の上に。
そうして、告げる。
「――――私の命が、貴女を生かしますように。私の命は、貴女と共に」
しばらくの間、フィオナはぽかんとしていた。
そうしてようやく、言葉の意味が理解できたのだろう。
「なんで、それ……」
と、さっきまでとは別の理由で、静かに涙を流しながら、聞いてくる。
なぜかと問われれば、答えは簡単だ。
「アリサさんから聞いたんだよ。お前の故郷での、プロポーズの言葉なんだろ……?」
アリサさんとは、アッカーマン商会の店舗で、何度か会う機会があった。その内、「プロポーズとか、もうしたのかしら……?」と聞かれ、「してません」と否定すると、なぜかこのプロポーズの言葉を教えてくれたのだ。
「もし、あの子にプロポーズしてくれる気になったら、この言葉でお願いできないかしら?」――と。
俺はそれを、ずっと覚えていた。
「言っとくが、フィオナ。俺はお前よりずっと強欲だぞ?」
「え?」
「お前が頷いたら……もう、お前を絶対、誰にも渡さない」
「っ!? ~~~~っ!!」
「だから……よく考えて、答えをくれ」
「…………」
こちらを見上げるフィオナの頬が、薔薇色に染まっていく。
そして微笑んだ。とても綺麗に。
それから俺の胸に、その中央に、フィオナの右手が添えられる。
答えはすぐだった。
「はい……っ!! 貴方の命が、私を生かすでしょう。貴方の命は、私と共に……っ!!」
胸がいっぱいになって、フィオナの唇にキスをした。
その日、次の日の朝まで、俺とフィオナは同じベッドの上で過ごした。
今まで何度も何度も我慢した分、俺は、何度も何度もフィオナを抱いた――。
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