二人目
平日の昼間だった。指定された北池袋のマンションに辿り着いた俺は、部屋番号を確認してから古いエレベーターに乗り込んだ。602号室、表札には「駿河」と書かれている。メッセージの通りだ。
インターホンを押すと、ぱすんぱすんとスリッパの足音が近づいてきて、いきなり鍵を開けてドアが開かれた。不用心だと思ったが、まあ自分を殺しに来る男に対しては無駄か。
そしてドアを開けた少女を見て、おや、と首をひねった。
「神木さんですよね!」
「そうだけど」
「ヤバい、テンション上がる」
少女は無邪気に笑って、
「あ、遠慮なくあがってください。飲み物とかいります? お菓子もありますよ」
「タバコ吸える?」
「ああ、すみません、換気扇の下でなら多分平気です」
俺は少女の後に続いて至極真っ当な3LDKを奥に進んだ。
「っていうか」
あまり手入れのなされていないキッチンにお邪魔して、換気扇を付けてジッポを取り出す。
「女子大生って聞いてたけど?」
「あー……」
言い訳の言葉を探す少女はどう見ても中学生、もしくは童顔な高校生くらいだった。化粧もしていないし、服装も今若い子たちの間で流行ってるやたら太くて短いパンツにタンク一枚、ついでに言えば胸もない。
「ごめんなさい、中学生って言ったら相手にされないかと思って」
「何年生なの?」
俺はタバコに火を付ける。
「二年です」
「十四歳?」
「はい」
俺はふむと頷いて、携帯灰皿に灰を落とした。
「あの、ここで殺してもらえますか?」
少女は大きなテレビと少々古いリヴィングボード、くたびれたソファ、固定電話などが取り囲むリヴィングを両腕で指して言った。声は酷く呑気で、でも同時に、年上の男と接することがないためか、緊張を隠しているようにも見えた。
「自室はダメなの?」
「自分の部屋は汚したくないし、親がこの部屋にいるだけで吐くくらいの、とか、もしくは引っ越しちゃうような、トラウマ? そうそう、トラウマになるようにして欲しいんです」
少女は笑うと右頬にだけえくぼができた。
「トラウマっていうと、そうだねぇ、結構血液とか内臓とか出ちゃうけど?」
「大丈夫です」
即答だった。ピースサインまで寄越してくる。違和感。引っかかる。鉤針を飲み込んだようだった。
「神木さんはナイフを使うって言ってましたよね?」
「そうだね、いつもナイフだ」
「いつも! え、もう何人も殺しちゃったんですか?」
興奮気味に少女が身を乗り出してくる。
「いや、まだだよ」
「じゃあ動物とかで練習したんですか?」
「ん、まあそんな感じ」
「すげー!」
何だろう、この少女が発するポジティブなオーラは。
ポジティブ?
殺されることが?
「これはみんなに聞いてることなんだけど」
俺はキッチンから出てリヴィングのソファに腰を沈めた。少女は遠慮なく隣にちょこんと座る。
「なんで俺に殺されたいの?」
「えー、それは前にメッセージで……」
「いや、直接聞きたいの。みんなに聞いてるんだ、儀式的にね」
大嘘だったが、どうも俺はこの引っかかりが気になって、この少女のキャハキャハした感じもどうも好ましくなくて、話すよう仕向けた。
「……私、学校嫌いなんです。だから行ってない。もう半年くらいかな? 別にいじめられてるとかじゃないですけど。みんなで同じ服着てみんなで同じタイミングでトイレに行って、みんなでお弁当食べてみんなで同じ勉強して、とか、なんか、つまんない。です」
「つまんないから殺されたいの? 学校だけが人生じゃないでしょ?」
「ウチの両親、両方不倫してるんです」
やや声音に力が入った。
「で、お互いそれを知ってるんです。だから晩ご飯とかの時は、すっげー平和に振る舞うんです。馬鹿みたい。私が知ってること、勘付いてるのかも。でもそんな嘘っぱちな家庭、私は超嫌い、っていうかマジ憎い。です」
「学校と家族だけが人生じゃないでしょ?」
俺が少し顔を近づけて言うと、少女は舌打ちの出来損ないみたいな音を口で立てて、深く息を吐いた。
そして唐突に立ち上がり、リヴィングを出た。俺はのんびりと後を追う。
少女は突き当たりのダークブラウンのドアを開けた。自室らしい。お邪魔します、と断って入室した。
そこには絵があった。
ドアの正面の窓には、一メートル以上のサイズの、曇天が描かれた鉛筆画があって、その上から強烈な日光が射し込んでいて、絵の中の空が逆光でさらに暗く見えた。その右手にある学習机の上の棚には芸能人の似顔絵、正面には精密な藤棚の絵、さらに横のラックにはおびただしい数のスケッチブックが陳列されていて、ベッドサイドにもその壁にも、手っ取り早く言えば部屋中が絵であふれていた。そしてそれらは全て鉛筆画、白黒のものだった。
「なるほど、趣味はあるわけだ」
よく特徴を捉えている俳優の似顔絵を見ながら言うと、少女は学習机の前の椅子に座って首を傾いだ。
「趣味っていうか、ライフワークです」
「ライフワーク」
また、大きな単語が出てきたな、と思う。
「これ全部、鉛筆で描いたの?」
「あ、シャーペンも使ってます。HBから6Bまで、使い分けてます」
「ちょっと見ていい?」
「はい、どうぞ」
俺は鉄製のラックから適当にスケブを抜き取り、ぱらぱらとめくってみた。風景画も人物画も、漫画的なタッチの絵も、絵画に無頓着な俺からしたって相当な技術とセンスがあることが伝わってくる。
俺が絵を見ている間、少女は何も言わなかった。普通の十代みたいに、どうですか、とか下手ですよね、とか上手くないですか、だとか、そういった感想を求めてくる様子はない。ちらりと視線を投げると少女はぼうっとした様子で窓際に視線を遣っていた。その横顔はまだまだ幼い。
「どう言って欲しい?」
「え?」
「この絵を見た人たち、今で言えば俺。に、なんて言われたい?」
少女は一瞬眉間にしわを寄せる。
「褒められたいかってことですか」
「ん、いや、ちょっと違う」
「私の絵は描いたら終わりです。描くのが楽しいんです。最後の一線を描き終えた瞬間、その絵はもう絵とかじゃなくて、ただの紙になります」
「じゃあなんで捨てないの?」
「……これでもかなり処分したんですけどね。母親が勝手にコンクールに出したらちょっといい賞獲っちゃって、それ以来全部保管しろって言われてて」
「でもライフワークなんでしょ? 殺されたら続けられないよ」
少女は視線を下げて押し黙る。
「もう、終わったんです。だから死んでもいいかって」
「終わった?」
反射的に聞き返すと、少女の顔はますます歪んだ。
「……色を」
蚊の泣くような声で、少女は話し始めた。
「ホントは油絵とか水彩画も描きたいんです。でも私、ダメなんです。鉛筆じゃないと、全然ダメ。親が、色鉛筆の、すっごい、百色以上ある高いのとか買ってきたけど、それでも全然、思うように描けない」
少女は心底悔しそうにそう語った。そこには年不相応な諦念と、しかし年相応の逆転勝利欲求も見て取れた。
「あのさぁ」
俺は窓辺に近寄り、曇天が描かれた大きな画用紙を見る。
「たとえばの話だけど」
ナイフを取り出し、自分の左の人差し指をほんの少し切る。
「か、神木さん?」
「こういうのダメ?」
俺は雲空の下に、判を押すように人差し指を置いて、なるべく血痕が丸くなるよう指を動かした。
「えっ……」
モノクロの絵に、一点、期待よりは小さかったけど、赤い丸が現れた。
「これ、太陽」
少女はぎょっとした顔で俺の血痕と俺の顔を交互に見る。そして次第にその視線は画用紙全体を捉えた。
「……夕日?」
まるで生き別れの親と感動の再会を果たしたかのような、その顔と存在と名前を確認するかのような声で、少女は呟いた。俺の人差し指からは、まだ少し血液が滲んでいた。
「俺、この空の絵、結構好き。もしこれから俺がきみを殺すとしても、俺はこれを記念品に持って帰るね。っていうかなんでカラーの絵を描かないといけないの? なんかそういう決まりとかあんの? 俺が知らないだけ? 描きゃいいじゃん、鉛筆画。書き続けてさ、気が向いたらペンキ? 絵の具? そういうので色つけたりとかさ、そういうのダメなの?」
少女は唇をふるふるとさせながら俺を見上げた。
「で、でも、絵だけじゃ今すぐにこの家を出られないし、食べていけないだろうし、あと義務教育とか、えと、親も高校くらい出ろとか言うし……」
「はぁ?」
俺は少し、苛ついたかもしれない。幻滅と言う方が正しいか。こんなにすげえ絵を描ける人間が、こんな些末なことに悩んでいるなんて。
「おまえが十四歳とか中坊で死にたいとか、ライフワークとか何言っても俺は何とも思わない。微塵も。でもな、おまえさっき『終わった』っつっただろ。何が終わったんだよ。見ろよ、この赤。おまえは夕日っつったけど、これ朝日だぞ、俺的には」
少女はぱっと赤い円を見遣る。
「終わったとか詰んだとかいう言葉、俺マジで嫌いだわ。俺から言わせれば、おまえなんも終わってねえよ」
一瞬、少女が俺の目を見上げた。
「神木さんは、終わってるんですか」
「ガキはデリカシーもリテラシーもないから嫌い」
俺はチャラけた口調で言って部屋を出た。もう萎えた。池袋でラーメンでも食って帰ろ。
玄関でブーツを履くのに手間取ってると、少女が走ってきた。
「神木さん!」
「なに」
「あの、え、延期します!」
「あ?」
「やっぱり私、神木さんに殺されたいです! でも今はやめます! いつか、本当に絵が描けなくなったら、また殺しに来てくれますか?」
「リスケ代払うならいいよ」
俺は言い捨てて部屋を出た。閉じられた扉の向こうから、絶対払うし! という声が聞こえた。
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