第22話 ターニングポイント
人類の歴史を紐解いたとき、そこにはいくつかのターニングポイントがある。例えば、どこかの誰かがはじめて火をおこした瞬間。例えば、意思のある原始の声が発せられ、その意思が別の誰かに伝わった瞬間。海の向こうを想像した誰か。音楽の発明。神の存在。二十四時間営業の店舗の登場。せんたくばさみやインターネットの普及。などなど。
きっと地球上の誰にも知られることはないが、高橋と島村が会話をした瞬間こそ、そんなターニングポイントになるに違いない。……と、少なくとも船長は思った。
「おお……」感嘆しきりの船長は、気持ちの悪い声をもらす。「とうとうこの状況を作り上げることができた。高橋と島村が、二人で食事をしている。なんと素晴らしい。この状況を、はるか遠方から仕組んだというのだから、見事と言うほかないな。私はこわいよ。私の手腕がこわいよ」
そんな呟きを聞きながら、サヨコはそっとため息をついた。これまで何度も指摘してきた「まだなにも起きていません」という事実も、もう繰り返す気にならなかった。この人(船長)は、早合点というか浅薄というか、ぬか喜びを学習しないんだ、と思うと、ため息しか出てこなかった。船長はなおも、「地球の運命を変えた男。私はそんな存在になってしまった。これはもう、神、愛を司る神……」といったような、勘違いも甚だしいことを、延々と呟いていた。これがまた、長いったらない。
ああもう、と痺れを切らしたサヨコは「船長っ」するどく声を投げた。
「いつまで悦に入ってんですか。まだ高橋と島村の動向に気を配らないといけない段階でしょう。どうなってるんですか。大体、船長が愛を司る神なわけがありません。それは絶対に。船長、その歳で独身じゃないですか」
「……ぐっ。神は孤独なのだよ」
「なに言ってんですか」
サヨコによって現実に引き戻され、船長は椅子の上でちょっと姿勢を整えた。ゲフンゲフン、と咳などをしてみてから、
「さて、高橋と島村はどうしているだろうな」
取ってつけたように真面目なことを言う。そしてモニターに、GPSの発信場所を表示させた。モニターには緑色を基調とした地図が映し出され、そこに一つの光点が表示されていた。光の場所は、まだ例の店だった。
「ふむ、まだ移動していないようだな」と言ったすぐあと、船長はモニターに目をこらした。よくよく見ると、光点は店の出入り口のあたりで停滞している。「あ、もしかして」
目の次は耳だ。船長は盗聴器の拾う音に耳を澄ませた。聞こえてきたのは、こんな声だった。
〈ありがとうございましたー〉
会計を終えたあとの、店の人の挨拶だ。船長は身を乗り出した。
「あ、高橋と島村、いや、少なくとも高橋は店を出て行くようだぞ、サヨコ君。どうだ、島村も一緒なのか? 別々ならもう、この作戦はおしまいだぞ。どうなのだ?」
「まだなんとも言えません」
そうこうするうち、GPSの光点は店の外へと出た。こうなればもう、GPSではなく、監視システムの俯瞰の映像の方が便利だ。早速モニターにその映像を表示した。夜の街の一角にカメラはズームしていく。いた。店から出たばかりの高橋だ。何を思うか高橋、夜空を見上げて、フッと息をついた。
その直後、店から島村も出てきた。
「よし、よし、いいぞ!」船長は手に汗を握る。べちゃべちゃだ。「送れよ高橋。ここは送るだろう、普通。なんならホテルにでも行け。ほら、高橋、言え。「ラブホテルに行きましょう」と、紳士的に言え」
「船長」
「なんだね。私は今、興奮している」
「気持ちが悪いです」
「ごめん」
船長とサヨコが静まり返ったなかに、盗聴器からの音声が聞こえてきた。俯瞰する映像のなかでも、高橋と島村は向かい合っている。
〈あの、わたし電車だから〉と島村は、駅の方を指差す。
〈ああそうなんだ。俺バス〉と高橋も最寄りのバス停の方向を指差した。同じ方向だ。
〈……〉〈……〉
高橋と島村の間に、遠慮の空気が流れた。
〈ああー〉と高橋が間延びした声を出して、〈じゃあ、そこまで一緒に行こっか?〉
じゃあ、なのだ。さっきはじめて会ったばかりだし、並んで歩くのも馴れ馴れしいっていうか、気まずいかもしれないんだけど、道がたまたま同じっていうんなら、わざわざバラバラに帰るのも変だから、それなら……、という一切合切を含んだ、「じゃあ」なのだ。
島村もその意味をしっかり理解して、
〈うん、そうだね〉
と頷いたようだった。再びだが、この頷きの意味合いは大きい。
船長は拳を握ったが、すぐに力を緩めて、
「待てよ。二人はどのくらいの距離を、一緒に歩けるのだ?」
こうなることを予測していた、とばかりにサヨコは手早くモニターに地図を表示して、二人が辿るであろう道程を、赤いラインで示した。マラソン中継の冒頭にあるコース紹介のような図だ。
二人はまず細い路地を抜け、大通りに出るだろう。そして三ブロックほど進み、大きな交差点の歩道橋を渡るだろう。それから二百メートルほど直進すれば、駅に到着する。高橋の目指すバス停も、大体その付近だ。
「通常の速度で歩いて、約十五分です」
「十五分か」船長は、上等じゃないか、と言いたげに笑う。「面白い。いいだろう、やってやろうじゃないか。カップラーメンなら五つもできるのだ。……長く待たせるヤツも近頃あるけどな!」
「あ、はい」
ちょっとはウケてるのか? 見てみよう。船長はサヨコに視線を向ける。
あ、ウケてなかった。なるほどな。
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