憎悪の警棒
村右衛門
憎悪の警棒
鈍い衝撃音が、狭い裏路地に鳴り響く。地面に頭を垂れ、何度も謝り続ける男の背中に、何度も、何度も警棒が振り下ろされる。痛みを紛らわせようとするかのように強く、地面を掴んだ指は小石で傷つき、血が滲んでいる。爪には砂が入り込み、欠けている爪もある。暗い裏路地には、男の泣き叫ぶような声と、殴打する音が響き続け、いつしかそれは、殴打音だけになって、それもまた、無くなった。
男を殴打していた警棒を持つ男は、裏路地から去っていった。裏路地には今も、倒れ伏す男の身体が放置されている。男は、乾いた息を漏らしながら、必死に肺を動かし、生きようとしていた。
死にかけの人間は、走馬灯を見ると言われる。男の脳裏に蘇ってきたのは、愛する息子の笑顔だった。妻を病気で亡くし、男の生きがいとなっていたのは愛する息子ただ一人。しかし、その息子さえも、自分のせいで一人残してしまうのだと考えると、死ぬのだとしても後悔して死ねない。
男は、一分の間、乾いた息をこぼし、何度も、殴られたところの痛みに表情をゆがめた。それでも、男の生きようとする気力は、失われなかった。しかし、時に、気力だけではどうしようもないことがある。また、この世は残酷である。
男は、一塊の血を口から吐いて、目をそっと閉じた。男の周りに、大きな血だまりはなかった。ただ、男の身体全体が、血に染まっていた。
その光景を見ていた少年が一人、膝から崩れ落ちるようにして、その場に倒れこんだ。まだ、小学校に入って間もない少年の頭では、今、目の前で起こったことを理解しきることが出来なかった。
人の身体、というものはまこと上手くできている。常に耳にヘッドホンをつけて、音楽を聞かせ続けた子供が、いつか耳の機能を失うように、自らの頭で処理しきれない情報を一度に得た少年の頭は、その機能を失いかけた。しかし、少年の脳は、その機能の損失ではなく、一時的な機能の停止を選択した。少年は、地面に倒れ、そのまま意識を失った。
十九年後、警視庁捜査一課第一強行犯係の部署で、一人の刑事が大きな欠伸をした。誰として、その事を咎めようともしない。欠伸をした男は、後藤警部補。この部屋のなかに今いる刑事たちのうちでは最も位の高い警部補である。
髪は整えようとしていないことが丸分かりなほどにボサボサで、顎には無精髭を携えているこの男。歳は五十三。しかし、実績はなく、ただ歳だけを重ねてきた男である。本来ならば、もう少し上の階級まで進めるはずが、功績をあげることができなかったために今でも警部補止まりの、残念な中年刑事だ。
今では実績をあげようとする気力もなくなったのか、基本的に喫煙所で煙草を吸うか、部署で後輩刑事に絡んでいる。この刑事は、周りの刑事からは実績をたてられないくせに先輩かのように接してくるウザい刑事、という印象を持たれていた。
その刑事とは対照的に、第一強行犯係の部署のなかで圧倒的人気を誇る刑事もいた。それが、鷹野巡査部長である。眉目秀麗で、女性警官にはもちろんのこと、男性からも憧れの目を向けられるほどの美顔を持つ。それに加え、刑事としての実績を二十六という若さでありながら幾つも挙げている。欠点はほとんどないといえよう。しかし、強いて言うならばコミュニケーション能力の欠如が挙げられる。彼は、基本的に他人との交流を持たない。いつでもぼんやりとしていて、気が抜けているようにも見える。しかし、そのような要素もミステリアスだと言われ、評価点となっている。
後藤警部補と、鷹野巡査部長。位だけ見れば後藤警部補の方が上であったが、他の刑事からの評判で見れば、覆しようのない差があった。雲と泥が共演することなど、誰も予想しないのと同様に、この二人が共に行動することなど、誰として予想しなかった。
「じゃあ、このヤマの張り込みは後藤、行ってこい。ついでに誰か一人連れてけ。」
捜査会議で、ほとんどの場合名前が出てくることのない、後藤警部補の名が呼ばれた時、刑事たちは気に食わない顔をしながら、チラリと後藤警部補の方を見やる。後藤は、気だるそうに立ち上がると、鷹野、と名を呼んで部屋を去ろうとした。
「後藤警部補、有能な刑事連れてって手柄挙げようとでもしてんのか」
周りの刑事は、後藤が鷹野を連れていったことに不満を溢した。後藤は、部屋を去る際に、低く舌を鳴らした。
後藤と鷹野が張り込むことになったのは殺人犯が潜んでいる可能性のあるアパートだった。拳銃を利用して一人を殺害した凶悪犯である。
「何で俺がお前選んだか分かるか?」
後藤が、ぼそりと鷹野に問う。
「分かりませんけど」
鷹野の反応は単純なものだった。後藤は、反応の薄さに苛立つわけでもなく、苦笑を漏らした。
「そういうとこだ」
後藤は、それだけ呟いて煙草を吸い出した。鷹野は、後藤の言葉に首をかしげるでもなく、ただ淡々と張り込みを続けた。
それから数時間ほどたって、張り込みの成果は現れた。意外にも成果が生じるのは早かった。
「鷹野、殺人犯だ」
ぼそりと呟く後藤の後ろで、鷹野は拳銃を握りしめて構えながら頷いた。
アパートから出てきた男は、フードを被り、マスクをつけて、顔を隠している。しかし、隠すことのできない鋭い目は、目当ての殺人犯であると物語っていた。既に似顔絵や監視カメラの映像などを利用して犯人の顔の一部分や、体格、歩容などを把握している後藤や鷹野は、その男が殺人犯であることにすぐに気づいた。
「捕獲しますか、後藤警部補?」
鷹野は警戒態勢を一切緩めないまま、後藤に指示を仰ぐ。
「お前もわかってるだろ、ここでチャカ持ってるかもしれんやつと乱闘騒ぎ起こしたら周りに被害が出るかもだ。丁度この先に裏路地がある。そこでやるぞ」
後藤と鷹野は殺人犯の後ろを、足音を潜めて尾行した。殺人犯は、基本的に人目につかない場所を通ろうとするだろう、という後藤の予想通りに、裏路地に入って行った。
「鷹野、援護射撃頼んだ!」
後藤は、後ろを駆ける鷹野に指示を放つと、裏路地の中に入って行った殺人犯を追いかけて走っていった。
「警視庁捜査一課の後藤だ、所までご同行願おうか。」
後藤は、裏路地に入って、男を視界に捉えるなり、警察手帳を開きながら言った。しかし、殺人犯が警察に呼び止められて足取りを止めるわけもなく、駆けだす。後藤は、殺人犯の後を追うべく、走り出す。その後ろから、鷹野は静かに銃を構えた。
瞬間的に銃声が響き、殺人犯の足から鮮血が噴き出す。殺人犯は、前のめりに倒れかけた体を撃たれていないほうの片足で支えて、振り向きざまに拳銃を撃ち出した。
「やっぱチャカ持ってやがったか!」
後藤は叫びながら、迫りくる弾丸を体を捩ることで躱す。そのまま、警棒で応戦した。殺人犯は、片足を痛めているためにあまり大きく移動することが出来ない。片足の筋力のみで体を支えている状況だった。拳銃という中距離武器を所持しているのにもかかわらず、足を使えないことによって殺人犯は近距離戦を強いられていた。無我夢中になった殺人犯は、後藤に当てようとして狙って撃つというよりも、やけくそに乱射を始めた。後藤と鷹野は、すぐさま近くの物陰へと隠れる。鷹野は、物陰からも殺人犯を射撃しようと隙を狙う。しかし、少しでもこちらの気配に気づかれたら先ほど同様に銃を乱射されかねないために安易には動けていなかった。
「後藤だ、張り込み中のアパート近くで殺人犯と接敵。拳銃所持、応援よこせ!」
後藤は無線機に向かって叫声を上げる。
後藤の発した、応援、という言葉に反応し、殺人犯はこの状況の打破を試みる。傷を負っている方の足を引きずりながら、殺人犯は前へと進んだ。時に振り返り、銃を数発撃つ。殺人犯は、何発も弾丸の予備を持っているようだった。何発撃ったとしてもその弾丸が無くなる気配はない。後藤と鷹野は完全に動きを封じられていた。それこそ、応援を待つ以外に彼らにできることはない。
しかし、転機は訪れた。殺人鬼が、引き摺る足を地面の凹凸に引っ掛けて体のバランスを崩した。殺人犯はそのまま地面へと倒れ伏す。その隙を見逃さなかった後藤は、すぐさま殺人犯の方向へと駆けて行った。
倒れている殺人犯の手元へ、後藤の警棒が振り下ろされる。強く叩かれた殺人犯の手の甲は赤く変色し、握られていた拳銃は手からこぼれた。そのままの流れで、後藤は手錠を殺人犯の腕にかける。
「7月3日午前1時8分、殺人の容疑で逮捕!」
後藤は、見事殺人犯を捕縛した。後藤にとっては久しぶりに上げる手柄である。
「鷹野、応援来るまでこいつ見張ってろ」
後藤は鷹野に指示を飛ばした。しかし、鷹野からの返事はない。基本的に反応が薄い鷹野である。しかし、指示に対する返事くらいはする。後藤は、返事がないことを訝しみ、殺人犯が完全に身動きできないことを確認して、鷹野が隠れていた物陰へと歩み寄った。
そこには、鷹野が地に倒れていた。しかし、どこにも外傷はない。銃弾で撃たれたというわけではないようだ。また、鷹野はまだ死んではいない。息をしていた。後藤は応援に駆け付けた警官たちに鷹野と殺人犯を任せ、そのまま立ち去った。
鷹野は、気絶する少し前、あるものを目にしていた。それは、後藤の警棒である。その先端は破損していて、中心にくりぬかれたような穴がある。後藤が殺人犯の手の甲を警棒で叩いた時に、偶然見えたのである。そして、鷹野は無意識の間に自分の状況や周りの状況を振り返っていた。犯人の足からの出血で作られた比較的小さな血だまり。特長的な破損の仕方をしている後藤の警棒。後藤が警棒を振り下ろす様子。自分が物陰に隠れてみている、という状況。
鷹野は、いつの間にか倒れていた。状況の把握と、瞬時に処理しきることのできない量の情報の処理にリソースを使いきった鷹野は、力尽きたようにして、地に伏していた。
突然に、鷹野の脳内に父親の顔が浮かび上がる。鷹野には父親がいない。母親もまたいなかった。母親は病気で亡くなった。しかし、父親はどうだっただろうか。どのようにして亡くなったのか、鷹野は記憶になかった。それどころか、父親という人物の存在こそ自分の中にあったという記憶があるものの、父親についての記憶はすべてなかった。父親の記憶を思い出そうとすれば、何か見えない壁に阻まれるようで、鷹野は思い出すことが出来ていなかった。
しかし、その壁が、今は無くなっているようにも思える。壁の先へ、壁の向こうへ、今ならいけるはず。そのような感覚が鷹野にあった。しかし、同時に壁を越えた先に自分が行くことは、自らを傷つける事にもつながると無意識に感じていた。
鷹野は、自分と自分の感情で、争い合っていた。父親についての記憶を取り戻したいと思う感情と、壁の先を見れば自分が傷ついてしまうのだと、壁の先へ行かせまいとする自分の感情。これらは鷹野の中で鬩ぎ合い、葛藤を生み出していた。
眠りの中の、無意識状態で、鷹野は葛藤し、覚悟を決めた。壁の向こうに何があるとしても、それが自らを傷つけるものだとしても、それを乗り越えなければ自分が変わることは出来ない。これ以上成長することは出来ないのだと。結果として、鷹野は身体的な目覚めを得ることとなる。そして、同時に、父親についての記憶が蘇った。
殴打音が、響き渡る。鷹野は目の前で起こっていることを静観していた。静観したくてしているわけではない。しかし、今となっては何をすることも叶わないということが、既にわかっていた。目の前で、警棒が、先端が異様に破損している警棒が振り下ろされる。その先にいるのは、地に伏す鷹野の父親だった。何度も、何度も謝る父親に非はない。それでも意味なく謝罪を繰り返し、泣き叫ぶ父親の姿は、あまりにも哀れだった。鷹野は、自分の父親が血の塊を吐く様子を見ていた。そして、ついには耐えられなくなり、吐き気を感じた。
鷹野は、突然咳をした。周りにいた看護師たちが、鷹野の担当の医師を呼びに行く。鷹野は、焦点の合わない目で、周りを見回した。普通の病室だった。自分が病院にいる、ということを鷹野は理解した。
「気が付きましたか。気分はどうですか?」
医師が、鷹野の様子を尋ねてくる。しかし、鷹野は上手く答えられないのか、ぼーっとした目を泳がせている。医師は怪訝そうな表情したのち、1つのことを尋ねた。
「自分の名前は言えますか?」
医師は、記憶喪失を疑っていた。今のところ、精密検査をしたのにもかかわらず、鷹野が気絶した要因は分かっていない。その要因によっては、鷹野が記憶喪失になっていることも可能性として考えられた。
「ゆざわまさし、6才です。」
鷹野は、自分の姓を鷹野ではなく湯沢と名乗った。しかも、年齢が明らかに違っている。しかし、将司、という名前はまさしく鷹野のものだった。
ところで、成長しきった大人の声の、幼い自己紹介を聞くというのは人によっては不快感を受けるものである。実際に、聞いていた看護師の一人は顔を顰めている。しかし、医師は何かに確信を得たようだった。
「幼児退行の可能性が高い。精神科へ移動した方がいいだろう」
医師はそう言った。幼児退行とは、何らかの要因によって意識や記憶が幼児の頃へと戻ってしまうことを意味する。精神疾患の一つとして認識され、精神的ショックを想起することなどによって引き起こされることが多い。鷹野の場合は、自分の父親が殺される様子を思い出してしまった事が原因となって起こった事だろう。元々、当時のショックによって父親に関する記憶のほとんどが失われてしまっていたのに、そのショックをもう一度思い出してしまったことで、また新たな精神的ショックを得て、今回のような事態になったのだ。
鷹野は、精神科に移動して。もう一度精密検査を受けた。その結果、幼児退行であることが確定された。そして、もう一つの精神疾患も発症していることが分かった。
PTSDという言葉を、聞いたことはあるだろうか。ストレス疾患の一つで、心的外傷ストレス後障害のことである。心に重いストレスを受けたことが要因となって、そのストレスを繰り返し実感し、コミュニケーションをとることが難しくなるというものである。基本的には殺人などの事件を目撃、または経験したことが心的外傷となり、そのトラウマを何度も想起して苦しむことが多い。まさに、鷹野の場合はそうだった。
PTSDはストレスが精神に大きな影響を及ぼすほどに重かった場合に発症する。鷹野は捜査1課第一強行犯係として、今まで幾つかの殺人事件などの捜査もしていた。実際に人が殺される場面を見たことはなかったとはいえ、そのことがそこまで大きな影響となるとは思えない。しかし、今の鷹野は幼児退行しており、鷹野の意識は6才の頃のものであった。そのため、メンタルも弱く、PTSDを発症したのだ。
医師が、鷹野の様子を確認するために病室に訪れる。そこには、何かにおびえて頭を毛布で覆う二十六の男性がいた。医師としても、この明らかおかしい状況に何も思っていないわけではない。しかし、今までの経験が、精神を落ち着けていた。医師は、幾つか鷹野に質問をする。今日の体調や、今の気分などである。PTSDに限らず、精神疾患を患っている患者に対しては慎重に接する必要がある。どのような言葉、仕草が心的外傷の想起につながるのかよくわかっていない場合は特にそうである。そこで、医師もPTSDを治療する、というよりも鷹野の情緒を安定させよう、という意識で鷹野に接するようにしていた。
鷹野の脳内には、またも感情同士の争いがあった。父親の記憶について、自分が傷つくとしてもその記憶を取り戻す、という覚悟を決めた鷹野であったが、それは大人の鷹野が決めた覚悟である。幼児退行し、意識が幼児の頃に戻ってしまった鷹野にはその覚悟はなかった。何かしら情緒を安定させ、幼児ではなく、大人の鷹野でいられる要素がなければ、自分を認識することさえできないような状況なのである。鷹野は、そのような要素を自らで見つけ出そうとしていた。それこそ、些細なものでいいのだ。ただ、一時的にでも情緒を安定させることが出来るのならば。父親の記憶を、大人の鷹野ならば受け止めることが出来る。今は、大人の鷹野の感情、精神を表面上に出すことが、この状況を打破する唯一の条件なのだ。
病室に、初めての来客が訪れた。鷹野は一方的な人気は得ているものの、基本的に友人などを持っていないタイプである。それに加えて父親、母親は死去しているため、ほとんど見舞いに来る人などいなかった。入院してから少し時間が経っている今、やっと初めての来客なのである。
病室に訪れたのは、後藤だった。リンゴ一つを包装も何もせずに持ってきた後藤は、不愛想に病室に入ってきた。鷹野は、毛布の陰から後藤を視認する。その途端、後藤から警棒、警棒から父親の記憶、というようにトラウマを連想する。鷹野は毛布を深くかぶり、体を震わす。その様子を見て、後藤は舌打ちを漏らした。
「コミュニケーションが出来ないとは思ってたが、こんなにか。PTSDねぇ。今頃鷹野は殺人事件の様子でも見てんのか?しかも、医者が言うには身内の殺害くらいにショックが大きいらしいな。」
後藤は、すぐに病室を去るわけではなく、歩き回りながら独り言をこぼした。鷹野が聞いているとは思っていない。聞いていたとしても、届いているとは思っていない。それでも、後藤は一つだけ言っておきたかった。
「じゃあ、刑事らしく事件の捜査くらいしろや、警察なめとんのか!?」
そう叫んでから、後藤は病室を後にした。後藤としては、鷹野を慰めようとしていったとか、そのような善意による行動ではなかった。それこそ、どうせ聞いてないんだから怒鳴っても問題ないだろう、くらいの気持ちだった。しかし、後藤がどのようなことを考えていたかは関係ない。鷹野は、後藤の言葉をしっかりと受け止めた。
実際、今の鷹野の精神状況としては、表面に幼児の鷹野の精神が現れている状況だ。そのため、今の鷹野の行動は幼児であった鷹野の行動と同義。しかし、大人の鷹野の精神も、混在している状況だった。そのため、後藤の言葉は大人の鷹野の精神にも届き、大きな影響を及ぼした。
鷹野の、父親を殺した犯人は既に判明している。証拠を見つけられているわけではないが、ほとんど確定している。そのため、事件を調査する必要などはない。しかし、犯人が分かっているならば、父親を殺した犯人が分かっているならば。するべきことはただ一つ。復讐である。
今日も、医師が鷹野の様子を見に病室を訪れた。
「調子はどうかな?」
幼児退行した鷹野に、医師は優しく問いかける。
「ええ、十分に回復しました。いろいろとご迷惑おかけしました。」
鷹野の目は、既に焦点が合っていた。しっかりと前を見据え、医師の質問にも対応できていた。鷹野の精神状況が安定したのである。心の葛藤は、結果として犯人への復讐をする、ということで結論が出た。心の葛藤を乗り越えた鷹野は、幼児退行という形で自らの精神を心的外傷から守る必要がなくなったのだ。そして、幼児退行が治ると同時に、メンタルも大人の鷹野のものに戻り、PTSDの症状も消え去った。今の鷹野は、父親の悲惨な記憶を受け入れている。
医師は、鷹野が回復したということで、幾つか検査を行ったのちに退院を許可した。鷹野は、すぐにでも復讐を果たそうと考えた。しかし、証拠が見つかっていない。それに、もう一つ、鷹野はしなければならないことを思い出していた。
鷹野が六才になった誕生日のこと。父からプレゼントと共に、一つの封筒を渡された。幼少期の鷹野が、その封筒を興味本位で開けようとすると、父はそれを制した。
『将司が大人になった時、この封筒を開けるんだ。』
父は、そう言って幼い鷹野の手に、封筒を握らせた。鷹野は、この記憶も父親に関係する記憶として失っていた。しかし、父親に関する記憶を大方取り戻した鷹野は、そのこともしっかりと記憶に残っていた。そして、成人してから六年ほど経った今になって、鷹野はその手紙を見に行こうとしていた。その手紙は、父親に関する記憶を失くしてからも何のものか分からない封筒として、自分の部屋にしまわれていた。父親に関する記憶を失ってしまったことで、封筒が誰から渡されたものなのか、それが自分にとってどれだけ大切なものなのかは忘れてしまった鷹野だったが、それでも何故なのか、その封筒だけは大事に保管していた。
鷹野は、捜査一課長に今日と明日は休んでいいと言われたため、その間に父からの手紙を見てしまおうと、自分の家に来ていた。鍵を開けて、家の中に入る。そのまま荷物を置いて、適当に座り込む。数日病院にいただけだが、自分の家というのは、何となく落ち着くものだな、と鷹野は思った。しかし、数日ぶりの我が家でリラックスするよりも先にするべきことがある。ということで、鷹野は階段を上がって自分の部屋へと向かう。この家は、鷹野が幼少期、父母と共に過ごしていた家である。母の部屋は母が亡くなった当時のままで、父の部屋もまた、父が殺害されたころと変わらず、手が加えられていない。鷹野がそのままにしたいと考えたからである。
鷹野は、自らの部屋の、金庫を開けて、父からの手紙を取り出した。それでも、取り出したはいいものの、開けるのは躊躇ってしまう。父親の記憶を乗り越えたとは言っても、この中にある手紙に何が書いてあるかはわからないし、そこにさらに大きなショックが待っているかもしれない。それに、鷹野の父親は優しい人だった。手紙にも父の考えなり何なりが書かれているはずだ。鷹野は、そのような言葉で自分の復讐心が揺らぐのが怖かった。今の鷹野は、後藤の言葉によって復讐心を支えに大人の精神っを保っているという状態だ。復讐心が揺らいでしまっては、またも幼児退行が起こる可能性もある。そうなることを、鷹野は怖れているのだ。だからといって、父親からもらった手紙を開かない、という選択肢はあり得なかった。幼少期に父と母を亡くした鷹野にとって、父や母の記憶というのはとても貴重なものだった。だから、父がいたことの照明となる手紙の中身を見ないなんて選択は鷹野にとってあるようでないものだった。
数分間の奮闘の末、鷹野は封筒を開いた。中に入っていたのは、一枚の折りたたまれたコピー用紙だった。この中に、父が自分にあてて書いた文章が書かれているのだと思うと、鷹野はその紙を開けるのも少し怖かった。しかし、ここまで来て立ち止まることは許されない。鷹野は、折りたたまれている紙を開いた。そこには、短いながら、文章が記されていた。全て、父の直筆だった。
大人になっている将司へ
成人おめでとう。多分俺は寿命尽きてないだろうから、これを俺に言われるのは二度
目だろうな。成人した将司を見るのが今から楽しみだ。
ところで、今こうして、手紙を書いているわけだが、折角だから一つくらいは伝えて
おきたいことを書いておこうと思う。
書き始めた理由はしょうもないことだが、何かしら名言でも書いておかないと締まら
ないだろう。ということで、将司に伝えておきたいことはただ一つ。
いい子でいろよ。
どういうのが「いい子」かは将司が考えたらいい。
将司の思うように、人生を楽しんで。
鷹野が、手紙を読み終わるころには、手紙は経年劣化による汚れ以外に、幾つものシミが出来ていた。鷹野にとっては、あまり感じない感情だった。父親が亡くなってからはあまり不幸にあっていなかった鷹野は、そのような感情を抱くような状況にならなかったのである。父を目の前で殺されたときにも、その感情を感じることはなかった。それよりも、恐怖が上回っていた。そして、久方ぶりに悲哀に暮れた鷹野は、数分間、自室で泣き伏していた。
数分して、少しは鷹野の情緒も回復し、安定してきたころ。鷹野は手紙について考えていた。主に、「いい子」という表現について。復讐をするような子が、いい子だと言えるだろうか。激情に駆られて父の仇を討つ子がいい子なのだろうか。鷹野が、怖れていた状況になってしまった。鷹野の中で、復讐心が揺らぎつつあった。父が優しかったのだから、鷹野もまた、優しい青年である。ならば、復讐をいい子がすることだとは考えられるはずもない。鷹野は、復讐心という支えを失った。
しかし、鷹野が怖れていたように、またも幼児退行してしまうようなことはなかった。鷹野は、復讐心を支えにして今の状況が成り立っていると考えていた。しかし、実際には復讐心がきっかけとなって今の状況が戻ってきていたのである。きっかけはただ単なるきっかけであり、状況維持のために達成しているべき条件ではなかった。鷹野は、決意を改め、新たなものにした。
父の仇である、後藤警部補を、日本の法によって裁く。それが、鷹野がするべき、そして父が望んでいるであろう復讐であった。
自分がするべきことを再認識した鷹野は、すぐに行動を起こした。約二十年たった今では、後藤が犯人であるという証拠はほとんどないだろう。一応は鷹野が目撃者として証言することが出来るが、二十年たっていることに加え、当時の鷹野は小学一年生である。その証言に信憑性がないと言われればそれで終わりだ。ならば、本人の自白か物証を得る必要がある。鷹野は、後藤に自分の罪を自白させる方向で計画を立てた。
ある日、後藤は鷹野に呼び出された。とても大事な話をする必要がある、ということで、後藤も一応話くらいは聞こうと集合場所へと向かった。しかし、後藤は集合場所について、周りを見回して顔を顰めた。見覚えのある裏路地だった。約二十年前、自分が酒に酔った勢いで男を一人殴り殺した場所である。酒を飲んでも記憶を失うわけではない後藤は、そのことをしっかりと覚えていた。しっかりと覚えていたからこそ、なぜそのような場所に呼ばれたのか、後藤は不審に思った。鷹野は優秀な刑事である。自分の罪に気づいた可能性だってある。しかし、後藤はそんなことどうでもいい、と考える。なぜそれほどに後藤が自信を持っているのか。それは、今日が鷹野の父の命日だからである。この国の殺人事件の時効は二十年。犯人が逮捕されるまでである。そして、後藤が殺人を犯してから、今日がちょうど二十年後なのである。今日の二十四時を過ぎれば、後藤は殺人の罪を問われることは無くなる。それで、後藤は自信を持っているのだった。しかも、後藤が出発したのは午後十一時で、ここまで来るのに三十分はかかっている。ならば、時効成立までは約三十分。その間どうにか鷹野の話を長引かせれば、または鷹野から逃げ切ることが出来れば、自分は逮捕されることもない。後藤は、そのことに安心して、静かにタバコを吸った。
「すみません、このような時刻に呼び出してしまって。」
どこからともなく、鷹野が現れた。後藤は、煙を口から吐きながら鷹野の声の方を振り返る。その眼は、常に鷹野の動きを監視しており、いつ逮捕に動いても反応できるようにしてある。
「単刀直入に言います。湯沢藤二という名、聞いたことがありますか?」
鷹野が言った、湯沢藤二の名に後藤は明らかに反応した。その男の名こそ、後藤が殴り殺した男の名だった。鷹野が、自分の罪に気づいていることは明らかだった。
「知らないな、そんな男の名前は。」
後藤は、出来る限り話を伸ばすため、このような状況でもしらを切ろうとする。
「忘れたわけがないですよね。ましてや知らないなんて。あなたが殴り殺した男の名ですよ?」
鷹野は必死に自分の感情が高ぶらないように制御しながら言葉を紡いだ。
「知らないと言ったら知らない。なんで俺が殺したなんて言えるんだ?」
「私は見たんですよ。あなたが父を殴り殺すところを。」
鷹野は、唇をかみながらどうにか話を続ける。自分で、父が殺されたことについて話すのには大きな苦痛を伴った。自分で父の死を認めてしまう、というのは鷹野にとってできるものならば一章したくないことなのだった。
「お前があいつの息子?苗字が違うだろうが」
後藤は、純粋な疑問としてそう言った。確かに、湯沢と鷹野では苗字が違っている。
「父が死んだ後、私は母方の祖父母の家に引き取られたんですよ。母の旧姓は鷹野だったんです。」
鷹野は、表面上は冷静にそう説明する。しかし、内心では早く後藤を逮捕したいと考えていた。このままではいつ感情が暴走するかもわからない。出来るならば早めに終わらせたかった。
「そうか。まあ、どうでもいい。あんな奴の息子なんざ知らなくても生きていける。」
後藤は、鷹野を挑発した。後藤にとって、今はいかに鷹野の話を長引かせ、鷹野の判断力を鈍らせるかが重要だった。鷹野が自分の感情を制御できなくなれば、それだけ判断力が鈍ると考えたのだ。
「さっさと黙れ。殺人鬼に話す権利など無い。」
鷹野の中で、怒りが膨れていく。制御しようとしても、溢れ出そうになる。
「あんな奴、死んで当然だったんじゃないか?」
「だから、喋るなと言っているだろうがッ!父は……父はお前のようなクズと違って優しい人だったんだ!お前なんかに、あんな奴と言われる謂れはないッ!」
ついに、鷹野の感情を制御していたダムが決壊した。それと同時、鷹野は判断力を失って後藤を無理やりにでも捕縛しようと動き出す。後藤も応戦するようにして、先端が欠けている警棒を取り出す。先に攻撃を与えたのは後藤だった。鷹野は、拳銃も、警棒も使おうとせず、後藤に素手で立ち向かう。後藤のことを甘く見ているとかではない。鷹野は、格闘技については捜査一課の中でも抜きんでた実力を有していた。そのことを知るものは少ないものの、後藤が勝てるような相手ではない。後藤も、鷹野と戦いながらそのことを感じつつあった。武器を持っている自分が有利なはずなのに、鷹野は劣勢になるどころか後藤が押し負けている。
このままだと後藤が逮捕される。そんな状況だった。
謎の電子音と同時に、素早く動いていた鷹野の動きが止まった。後藤も、鷹野が突然止まったことに驚いて動きを止めてしまう。鷹野は、目の前の後藤を置いておいて、ポケットから自らの携帯を取り出した。そして軽く操作すると、電子音は消える。
「十二時です。」
そう言って、鷹野は自分の携帯を後藤に見せる。そこには、ゼロの表記が三つあった。後藤は、一気に体の力を抜く。これで、時効成立だ。後藤が逮捕されることは無くなった。鷹野は、悔しそうな表情を表面上は隠しながら、後藤に背を向けた。
「時効が成立したんです。わたしにはあなたをどうこうする権利はありません。ですが、父を殺したことだけ、認めてくれませんか。」
鷹野は、何もかもを諦めた口調で、後ろにいる後藤に言った。
「ああ、今更言ったって何の問題もないんだ。言ってやるよ。俺は、後藤隆は湯沢藤二を撲殺した。今から二十年前にな。」
勝ち誇った表情で、後藤はそう言い切った。その瞬間、鷹野が振り返り、後藤を投げ飛ばした。そのまま鷹野は後藤の腕に手錠をかけ、叫ぶ。
「8月3日23時56分、殺人罪で逮捕する!」
後藤は、何が起こっているのかあまり理解できていない。そんな後藤の前に、鷹野はあるものを見せつける。それは東京標準時刻であった。つまりは、日本が今何時かを示すものである。すると、まだ午前0時を回っていなかった。
「あなたが文明から取り残されてくれていてよかったですよ。」
鷹野は、冷ややかに後藤にそう言った。後藤は電子機器を好まない。そのため、携帯はもちろんのこと、腕時計さえも持っていなかった。そんな状況で夜中の裏路地に来ればどうなるかなんて分かり切っていることだ。時間が分からなくなる。そして、後藤は鷹野に見せられた時刻を信じるほかなくなるのだ。それに、後藤としては早く0時になってほしいと考えていたのだから、今がその時だと言われれば一気に緊張状態も緩む。それによって判断力も下がってしまったのかもしれない。
こうして、鷹野は後藤を逮捕した。後藤の自白を録音してあったために、証拠としては十分だった。しかし、詳しいことを調べるために今は後藤の取り調べが行われていた。
その様子を、上から鷹野が眺めていた。既に自白してしまっている後藤は、尋ねられたことに淀みなく答え続けた。
「父親の仇を討てたわけか。」
突然、鷹野一人しかいないと思っていた空間に声が響いた。鷹野が振り返れば、40くらいの男性が立っている。
「中野警視、どうしてここに?」
彼は中野警視だった。鷹野も接したことは少ないが、様々な方法で警察上層部に上り詰めた傑物だということは聞いていた。
「先制攻撃は後藤からだったそうだな。ならば、正当防衛に見せかけて殺すこともできたはずだ。あの男が人を殺すことを躊躇うとは思えない。過剰防衛にはならないだろう。」中野は、さも当然かのようにそう言った。警察上層部が言っていいのか、というようなことを言っている。鷹野も流石に驚いた。
「怖れながら、そのようなことをおっしゃって大丈夫ですか?」
鷹野も中野の爆弾発言には流石に疑問があるようだ。中野の口調は何か冗談を言うようなトーンでなかったし、そもそも中野と鷹野は冗談を言い合うような関係ではない。だからといって、中野がそのようなことを本気で考えて言ったのであれば、それは問題になり得るのではないだろうか。
「今は警視としてではなく、ただのおじさんと思ってくれ。それで、何故殺さなかった?君は殺すことが出来たんだ。父親の仇を。」
中野は、問いを重ねた。鷹野は、その質問が本気のものである、と分かって必死で返答を考える。そして、鷹野は答えを出した。
「あんな奴、殺すだけ無駄ですよ………とか言えたらかっこいいかもしれないですけど、怖かったんですよ。俺は、後藤のような人間に成り下がるのが怖かったんです。それに、後藤を殺すことが本当に、父の敵討ちになるのか、って考えたら復讐心も揺らいで。」
鷹野は、そこで言葉を切った。そして、後藤に目を移す。
「でも、それで良かったと思います。父は優しい人でしたから。こういう敵討ちを望んでいたと思います。」
鷹野は、言い切った。後藤は確かに人の風上にも置けないような人間かもしれない。酒に酔った勢いで人を殺し、そのことを20年近く隠し続けてきたのだから。しかし、それでも、鷹野がそのような人間を殺すことによって犯罪者になるのは父も望んでいなかったことだ。鷹野は悩んだ末に、父の考えを貫き通したのだ。
鷹野の言葉を聞いて、中野はそうか、とだけ残して去っていった。彼の真意は、誰にも分らないまま、日々が過ぎるのだろう。しかし、真意がどうあれ、彼の問いかけが、鷹野にとって大きな影響を与えるものであったことは間違いない。人は問いかけられることによって、自分で答えを出していくことによって、自分の考えをまとめられる。中野は鷹野が未だ心の中をまとめ切れていないことを知っていたのかもしれない。
8月初旬、未だ夏のど真ん中であるこのころ、一匹のクマゼミが羽化した。
憎悪の警棒 村右衛門 @manngou
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