曇りのち晴れ

---



2022年7月3日





天気は濁り気味。

空気は湿気っている。

お世辞にも良い天気とは言えないけれど、

お世辞ではなくきちんと

いい日だと口にできる。

そんな日になると確信していた。


家を出る前にいつも

視界に入る景色を

堪能するようにじっと見回す。

ヒビの入ったお皿、

何故か盛られている塩、

汚れの目立つエコバッグ。

日常の切れ端を集めて集めて

今、この景色になっている。

日常は、ひと欠片だけですら

なりたくのだから侮れない。


母親は仕事に出かけたのか

それとも教祖様とやらの場所へ

いってしまったのか。

そんな詳しいことまでは分からないけれど、

あの人のことだ。

気にするだけ無駄だろう。

きっと劣悪だなんて言われるような

家庭環境にすら慣れてきてしまった。

最近では勉強を強制されることも

徐々にだが少なくなっている。

あて自身もいい大学に行きたいというのは

願いのひとつでもある。

皮肉ながら目的地は一緒なのだ。

なら、仕方がないというものだろう。

水泳を辞めると決めた時、

「水泳を続けろ、勉強をするな」

と言わなかったのは不幸の幸いだった。


麗香「…扇風機は…消した。」


ボタンを押しながらひとつ呟く。

この程度の暑さであれば

風を回していれば

案外何とかなるもので。

それが、たった今止んでしまった。

さて、それからここは

猛暑が集り出すことだろう。

そうなる前にさっさと出てしまおうか。


麗香「行ってきます。」


誰もいない家が好きだった。

そんながらんと音が鳴りそうなほど

寂れた家を後に

あては1歩踏み出した。


外は変わらず曇天。

急に晴れになることなんて

映画でも作り話でもないのだから

あるはずなどなかった。

今にも雨の降りそうな中、

あては手を健気に振り歩く。

今日は楽しいことがあるのだろうと

側から見てもわかったかも知れない。

そう。

今日は長束先輩と関場関場と

3人で遊びに行くのだ。


本来ならば先週行く予定だったけれど、

帰ってきて早々週末遊びに行くのは

どうにも予定が合わなかったよう。

急用が入ったといっていたっけ。

学校のことやアルバイトのこと、

家族としてのこと、戸籍のことなど

多くの問題が山積みだったのだろう。

そう思うことにしておいた。

深くは考えていなかった。

そんなものだろう、と

感じたまま考えることをしなかったのだ。

戻ってきてくれただけで十分。

十分なんだ。


それから、電車に揺られ

都会の方へと流されてゆく。

ふらりふらりと慣性の法則によって

体を揺さぶられている人が何人か。

それを見ていられるほど

気を抜くことは出来ているよう。

つい2週間程前のあては

そんなことできていないから。

下ばかりを見続け、

ぎゅっと手には力を入れっぱなし。

いつだって長束先輩のことを考えて、

書き止め忘れたことはないかと

何度も何度も思案する。


それをもうしなくていいのだ。

けれど、記録は書き続けようと思う。

あてだって、先輩たちだって

いつかはいなくなってしまう。

明日かも、明後日かも、来月かも、来年かも。

10年後かも、さらに先かも。

正確な数字はわからなくても、

確実にいなくなってしまうことはわかる。

その時まで、あては記録を続けようと思った。

あての大切な記憶だから。


ただ、これまでの通り

先輩との記憶を全て

記録に残すのはきっと難しい。

だって今後、これまでより多くの時間を

先輩と過ごす予定だから。

だから、この遊びに行く日を境に

不可思議なことが起こった時のみ

全て記録に残そうと考えていた。

長束先輩も戻ってきて

何もかも元通りになったけれど、

まだ続く可能性だってある。

それに、現段階で起こっている

可能性だってあるのだ。

例えば、雛美月という人が

1度いなくなったこと、だとか。

けれどあれば家出だったと見たから

あまり不可思議だとは

思わなかったけれど。

それでも、1度夏あたりに

まとめることはしておいた方が良さそうだ。


夏に思いを馳せる。

青々とした海のような空を

見ることになるのだろうか。

そこに雲は浮かぶだろうか。


…。


暫くの間、海は見なくても

いいかも知れないな。


そう考えを巡らせている中、

遂に目的地の名前が

機械を通して呼ばれていることに気づく。

乗り過ごす前に気づいてよかったと

胸を撫で下ろしながら

地に足をつくのだった。


曇天だというのに

湿気に塗れているからか

妙な汗がつうっと背を流れた。

持ってきていたハンカチで額を拭うと

一瞬にしてじっとりとした感触に変わる。

流石に背中を拭くことは出来ないと

諦めて鞄に仕舞う。

ふと顔を上げると、

随分と白い世界に数多もの人が

流れるように歩いている。

海のようだ。


そして。


愛咲「あー!れぇーいかぁー!」


海に流されることなきよう

端によった2人の姿。

先輩達は既についていたようで、

暑さを凌げるよう日陰に立ち

あてを待っている姿が見えた。


先輩の声で何人もが

彼女の方を振り向くのだけど、

あてはそれを鬱陶しく思うことは

どうやらなくなってしまったよう。

その光景すら愛おしくなってしまうなんて

最早病気とも言えるだろう。


愛咲「よぉー!よく辿り着けたなぁ!」


麗香「…馬鹿にしてるけぇ?」


愛咲「いーや、流石だなってことだぜ!」


羽澄「愛咲は乗り間違えたそうですよ。」


麗香「へー。」


愛咲「興味なしか!」


麗香「いや、そうじゃなくて。よくあてより早くついたなーって。」


愛咲「あぁー。うちな…昨日の晩からここに…」


羽澄「わくわくしすぎて1時間前行動したっていってました!」


愛咲「羽澄ぃー!」


麗香「にしし、先輩らしいけぇ。」


愛咲「だー、楽しみだったから仕方ねーだろー。」


羽澄「それは羽澄も麗香ちゃんも一緒ですよ。」


麗香「そうけぇ。」


愛咲「うっ…うぅ…うちだけに背負わせないってわけだな…いい仲間を持ったもんだ…。」


麗香「さ、どこ行くけぇ?」


愛咲「無視かよっ!」


羽澄「おっと、ここで愛咲のツッコミが炸裂です!」


麗香「にしし。」


そうそう、これこれ。

これだ。

胸の中ではいつまでも

楽しいという感情が躍っていた。

ただ話しているだけでも楽しい。

先輩達がどう思っているかはわからない。

けれど、様子を見ているに

どうやら嫌ではないのだろうと

推測することはできた。


愛咲「だっははー!あ、そういえば麗香。」


麗香「ん?」


愛咲「羽澄いるけど、喋り方はもういーのか?」


麗香「あぁ。うん。関場先輩ももう仲良しけぇ。」


羽澄「麗香ちゃん…!」


麗香「何けぇ、そんな感動した声を出さないでほしいけぇ。」


羽澄「羽澄も麗香ちゃんのこと、もう大の仲良しだと思ってますよ!」


麗香「にぇ、近づくな、こっち来るなけぇ。」


愛咲「うぅ…泣かせるじゃないかい…」


麗香「先輩、見てないで関場先輩をどっかやるけぇ。」


羽澄「うう、麗香ちゃーん!」


麗香「来るなって言ってるけぇ!」


関場先輩と長束先輩が

仲の良かった理由を忘れていた。

そうだ。

2人は似たような素質があったのだ。


長束先輩は確か兄弟が多いと

話に聞いたことはあるし、

関場先輩は児童養護施設にて

年下の子が沢山いると聞いた。

あては完全に子供扱いをする範囲らしい。

この暑さの中抱きつかれるのはごめんなので

やはり声を上げて逃げるしかなく。

関場先輩にも長束先輩同様に、

対等に過ごせるようになったのだと

こんなところで実感したのだ。


それからまだ暫く話をした後に、

あて達はいろいろなところへと

足を運んだのだ。

各々行きたい場所を

ひとつ挙げて行く旅。

あては勿論猫カフェ。

長束先輩は例の如く

飛び上がっていたっけ。

けれど、最後の方は少しばかりなれたのか、

席につけるようにはなっていた。

毛並みがつやつやしている子、

寝転がって動かない子。

どの猫も全てが愛おしい。

ずっとこの空間にいたいと思いながらも

次の目的地が待っていると気を持ち直した。

そして、関場先輩の提案で

ショッピングモールへ。

そこで服を見たり雑貨を見たり。

関場先輩はどうやら

不思議な形をしているガチャガチャの

景品が好きなようで、

今集めているのだとか。

Twitterを見ている限りだと

見たことのスタンプを

多用しているのが窺えた。

少しばかり普通とは

ずれている感性なのだろうけれど、

あても長束先輩もそれを面白がって

一緒にガチャガチャを回した。

それから、長束先輩の提案で

ゲームセンターへ行った。

3人でプリクラを撮ったり、

クレーンゲームをやったり。

意外にもあてが上手くって

小さなストラップが取れたものだから

長束先輩へとあげたのだ。

関場先輩にも渡そうと

もうひとつ取ろうとしたが、

「今日は愛咲のお帰り会も兼ねてるので

主役の分だけでいいんですよ」

といっていたっけ。

それに、この先の楽しみが

あった方がいいだろう、

次回以降にとることにした。


散々遊び回ってはしゃぎ回った。

もう動けないのではないかと思うほど。

これまでの2カ月間、

何もしなさすぎたんだ。

こんなに動いたのは久しぶりだ。

こんなに楽しかったのは初めてだ。

けれど、もう終わりの時間は近づいている。

午後6時が迫る中、

曇りだったこともあり

みるみるうちに暗くなっていく。


羽澄「あはは、あー…楽しかったですね。」


麗香「うん。」


愛咲「だな!うちも久しぶりにはしゃいだぞー!」


麗香「先輩は毎日はしゃいでるけぇ。」


愛咲「うちだっておとなしい時はおとなしいですー。」


羽澄「それは羽澄が証明できます!」


愛咲「お、言ってやってくれ!」


羽澄「ずばり…授業中です!」


麗香「最低限けぇ。」


愛咲「偉いだろー!」


麗香「にしし、はいはい。偉い偉ーい。」


愛咲「だっははー!またこうやって遊ぼうな!」


羽澄「はい!勿論です!」


愛咲「今度も遅れないように来てやるぜ。」


麗香「いっそ走ってきても間に合いそうけぇ。」


愛咲「お?やるかぁー!」


羽澄「あははっ。」


あて達だけの時間だった。

あての、大切な大切は思い出になった。

これだけは全てを書き残して起きたくて。

きっとこの先の出来事も全てを

書き残したいだなんて

思ってしまうだろう。

だって、忘れたくないのだから。

けれど、もう全てを残すのはやめる。

じゃなきゃあては

いつまでも海の中に

潜っていることになってしまうから。

もう十二分に呼吸が出来る。

だから、もう海底には

ばいばいしなきゃならないのだ。

折り合いをつける時なのだ。



---



ここまで書いてふと息をする。

これから思い出す毎に

付け足して書いていこう。

ただ、今日の分までね。

その先は不可解だけが

立ち入ることのできる場所。

左をふと見れば

あての掌のサイズは

超えただろう紙の山が見えた。

よく書いたものだと自分を褒める。

ぐーっと背伸びをしてみた。

あぁ。

もう手首は痛くない。


麗香「あ、そうだ。」


一部書くのを忘れていた。

はっとしてノートの上部に

手を動かしてペンを握りなおす。

手の側面はこれまで通り

炭素で染め上げられているだろう。

けれど、5月の頃のような苦しさはもうない。

もう日常は戻ってきたのだから。

あての心には

濁り切った水も枯れ切った花も

見当たらなかったのだ。


そして最後に記したのだった。



曇りのち晴れ








海の明け 終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海と明け PROJECT:DATE 公式 @PROJECTDATE2021

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ