海と明け

PROJECT:DATE 公式

乾いた空気

息を肺が破裂してしまうほどに

深く深く吸い込んで、

喉奥に冷ややかなものを感じたところで

勢いよく吐き出す。


それからもう1度深く吸い込む。

今度は肺ではなく腹に空気を

溜め込むつもりで。

そして吐き出す。


すると、鼻がすうっと通ったのか

不意に夏の香りを嗅ぎ取った。


「あーいさぁー!」


愛咲「おー!」



駆け寄ってくるのは

うちよりも随分と身長の低い

マネージャーのような存在。

そう、陸上部の小型犬こと前田だった。


前田は何ヶ月か前と変わらず

時間測定用のものを

いくつか手にしている反面、

数ヶ月前とは変わって

タオルを首にかけていた。

水筒のサイズも皆

ひと回り大きくなっていて、

太陽は高く登るようになった。

誰かしらの身長が大きく変わっている

ということはなかったけれど、

夏バテか否かげっそりと

している部員はいたっけ。

けれど、そのどれもが

こんな感じだっただろうかと

疑問を感じるけれど、

答えにまではありつけない。

その程度の違和感があった。


2ヶ月。

たった2ヶ月。

されど2ヶ月。


前田「今日は走るんだってー?」


愛咲「そーなんだよぅ。そろそろ夏の大会近いし、迷惑かけてらんねぇぜ!」


前田「無理すんなよ?」


愛咲「おうよ!」


前田は尻尾がついていたら

きっとふりふりと全力で

左右に振っているだろうと思うほど

目をきらきらと輝かせていた。


うちが戻ってきてから数日の間で、

周りは大きく感情の波に任せて

喜びの表現していたっけ。

前田は泣きついてくるし、

他の親しかった部員も

何人かは目元を拭いながら

お帰りと言ってくれた。

そこまでべったりとまでは

関わっていない部員や、

異性の部員、クラスの人、その他の人からも

よく戻ってきたと称賛された。


学生だけではない。

先生の方々だってそうだ。

よく生きて帰ってきてくれた、と

涙声になりながら

うちの手を取り強く握った。

それから、結論として

無断欠席を貫き通してしまった

アルバイトでだってそう。

奇跡だ奇跡だと、

無事でよかったと抱きしめられた。


家族だってそうだ。

母さんを始め、弟や妹から

お姉ちゃんお帰りと何度も言われた。

母さんに限っては

どれほど不安だったのだろうか、

中々離してくれなくて。

失踪中の色々な手続きがあっただろうそれらは

全て母さんがしてくれていた。

うちが復学する際にも

ずっとずっと手伝ってもらった。

そしてめでたく現状は

落ち着いていったのだった。


そして何より記憶に色濃く残っているのは

間違いなく根府川駅の朝日と

今までにないほど泣きじゃくっていた麗香、

それから安堵の滲む顔をしていた羽澄だった。

あの2人が救い出してくれたのだ。

暗く、微々ながら毒に甘やかされてゆく、

そんな空間から。

そんな時間から。

助けてくれたのは

紛れもなくあの2人だった。


これまでのことをぶわっと

脳内で巡らせる。

整然としないままに

目の前にいる前田の頭に

手を乗せるのだった。

それから、軽く撫でてやる。

今年の春のように。





°°°°°





前田「おい撫でるなー!」


愛咲「だっはは、可愛いねぇー。」



---



愛咲「なぁーにすんだよー!」


前田「やーいやーいばーか!」


愛咲「確かにうちは馬鹿だけど馬鹿って言うんじゃねー!」


前田「ばーか!」





°°°°°





前田「なーにすんだよー。」


愛咲「撫でてんだよぅ。」


前田「誰が小型犬だ!」


愛咲「愛しの前田ー。」


前田「うるせー!離せってー。」


愛咲「そういってー実は嬉しいんだろー。」


前田「嬉しくねー!」


前田は前田で変わっていないようで、

どうやらこうして見ると

いつも通りという言葉がしっくりくる。

笑いながら燥ぐ姿は

まるで大きくなった子供。

どうにもじたばたするものだから、

様子を見て離してやると

落ち着いたんだかそうではないのだか、

鼻息を荒くしたまま

うちに威嚇してくる。

けど、数秒経てぷっと吹き出し、

再度盛大に笑いだすうちらがいた。


前田「あっはは、くだらなー。」


愛咲「うちらそんなもんだろー!」


前田「確かになー!」


愛咲「前田とうちの仲だろうがよぅ!」


前田「それなそれな。あ、そういやさ、ずっと気になってたことがあんだけど。」


愛咲「んだんだ?うちが行方不明の間何があったかって話か?」


前田「いや、違くて。ってかそれはもう覚えてないんでしょ?何回も聞いたって。」


愛咲「それもそうか!」


前田「そーだよ、何聞いたって覚えてないのひと言で蹴るんだからさ。」


愛咲「本当のことなんだから仕方ねーだろーぃ。んで、何が気になってるって?」


前田「そうそう。それなんだけど、いつまでうちのこと旧姓で呼んでんだろーなって思ってさ。」


愛咲「あそっか、変わってたんだっけ。」


前田「1年くらい前だけどな。」


愛咲「前田って呼びやすいんだよなぁ。」


前田「苗字で呼びすぎてうちの名前忘れてんじゃね?」


愛咲「そんなわけ…さつき…いや、みか…あ。」


前田「あ。」


愛咲「忘れてるわ!」


前田「愛咲お前なぁー!」


愛咲「だっはは、ごーめんってば!」


腕を振り回しながら近寄ってくるものだから、

条件反射ともいえるだろうか、

すぐさまその場に土煙をあげた。

今日から本格的に練習を再開する。

これまでは見学していたり、

軽いウォーミングアップのみで。

何せ2ヶ月間走っていなかったのだから。

…。

そう。

うちには空白の2ヶ月間があった。

そのうち、あの冷ややかな花に

包まれていたのは

たったの1週間弱。

他の期間はー。


前田「まーてー!」


愛咲「追いついてみろよーぅ。」


…。

…今はきっと、

そんなことなんて思い出さなくていい。

だって、全て終わったのだから。


それから他の部員も集まってきて

うちらは練習を再開した。

久々の練習はやはり体がついていかず、

止まらぬ汗を一生懸命

拭っている間に夏の1日を終えた。


こんなに暑かっただろうか。

この2週間ほどで慣れたつもりだったが、

案外そうでもないようで。

この暑さに慣れていないのは

うちだけではなく多くの人がそうだろう。

そう思えば、うちはもう

日常に仲間入りしていたのかと

気づくことができたのだ。


こういう時は、冷たいものでも食べたくなる。

あぁ、それこそ。





°°°°°





愛咲「これって流石に家までだと溶けちまうかなー。」


麗香「暖かいし、多分溶けるけぇ。」


愛咲「んだよなぁ。あーあ、戻ってきたと思ったら30℃近いし、体がついていかねーよぅ。」


麗香「それでも部活には行くけぇ?にぃ?」


愛咲「んま、最初は見学とか手伝いからだぜ!あと、ちょっとだけウォーミングアップ参加とかな!」


麗香「やっぱりすぐにはしんどいけぇ。」


愛咲「ま、2ヶ月間走ってなかったんだしなぁ。」


麗香「あ、ほら、溶けるけぇ溶けるけぇ。」


愛咲「そーじゃねぇか!食べてから帰るか。な、麗香。」


麗香「うん。」





°°°°°





それこそ、ブラックサンダーとか。


夏の1日にお別れを告げ、

ふと気づけばみんなとも

お別れを告げる時間になっていた。


さて。

寂しいのは山々だが、

それを何度となく繰り返してきたのだ。

けれど、非現実を実感することで

この何気ないまた明日が

こんなにも素敵だということに気づいた。


明日は楽しいことが起こる。

うちはそう予言できるのだった。

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