六・二

 本格的に夏にさしかかったあたりで、私は毎日のように強いデジャヴと悪夢に苛まれるようになった。講義を受けるたび、バイトするたび、彼と話をするたび、今まで感じたことのないような強烈なデジャヴが私を襲った。やること全てが何回も、何十回も、何億回も繰り返した行為に思えて仕方がないのである。見るもの全てに既視感を覚えた。

 まったく奇妙な感覚である。

 さら悪いことには悪夢にも悩まされるようになった。夢の内容は様々で、高校生だったり、兵士だったり、旅人だったり。私は毎日夢の中で様々な私になることができた。それはどれも異なっていて、同じ私は一人としていなかった。ただ一つ共通していることは、その全てで私が死ぬことだけだった。事故に遭ったり、殺されたり、自殺したり。死因までも様々であったがいずれにせよ私は死んだ。死ぬ瞬間に飛び起きるのが常だった。夢にしてはあまりにもリアルで、目覚めはいつも最悪。毎朝そんな調子だから、私は次第に鬱屈した気分になっていった。


 しかし夢に関して、死ぬことよりもっと憂鬱だったのは彼のことである。彼は必ず夢の中に登場した。彼のいなかった夢は見なかった。そして私が死ぬ場面にはいつだってそばにいた。その時の彼の顔が今でも脳裏に焼き付いている。辛そうで、苦しそうで、今にも泣きそうな顔をして。けれど意地を張って何とか涙を堪えている。そんな顔だった。あんな顔の彼は見たことがない。その表情を見るたび、私の胸は悲しさと申し訳なさとで締め付けられた。


 彼はまた、いつだって手を伸ばしていた。私が死にかけの時、いつも彼は私に手を伸ばしていた。まるで私を、この世に引き留めようとしているように。


 私が夢で死ぬのは別に構わない。寝覚めが悪いのは事実だがそんなのはささいなことだ。夢の中とはいえ彼にあのような顔をさせてしまったことが憂鬱の種なのである。それがあまりにも長く続くものだから、さすがに不安になって友人や先輩や、カウンセラーにさえ診てもらった。しかし結局事態は改善せず、悪夢を見ない日は一日としてなかった。


 そしてあの朝、夢は夢ではなくなった。


 憶えているのはあの光景だ。凪いだ草の海、満天の夜空、降り注ぐ星の雨。心配そうな彼の顔。あまりにも美しいその風景の下、倒れ込んだ私の両手に彼の両手が重なった。


 ——お前が救われるなら、僕なんかどうだっていいんだよ。


 作ったような笑みを浮かべて、彼が私の手を強く握る。その手が青く輝き、光輪が現れる。


 その時のことだ。

 彼の記憶の断片が頭に流れ込んできた。


 彼が私を好きであること。遠いどこかの世界で私が死んでしまったこと。私を守るために何度も世界を変えてきたこと。そのために何十億という世界を渡り歩いてきたこと。それでも私が死んでしまうこと。そのたびに辛い思いをして、けれど決して諦めずに私を助ける方法を模索してくれたこと。これからどこか遠いところに行こうとしていること。


 何……これ……?


 自分の身に起きたことを、私はまったく理解できなかった。だが直観では理解していた。

 このままでは、もう二度と彼に会えなくなる。彼のことを覚えていられなくなる。そして彼はまた苦しむことになる。


 全ては私のために——。


 やめてよ。

 行っちゃやだよ。


 声にならない声で私は言葉を紡ぐ。


 私なんかのために苦しまないで。

 悲しまないで。

 そんなに辛い思いをしないで。

 もう私のために生きないで。

 あなたにはあなたの人生がある。

 だからお願い。

 やめて。

 行かないで。


 私は叫ぶ。


 もういいの。

 もう——。


 その言葉は、ついに彼には届かなかった。


 ——さようなら、栞。

 寂しそうな笑顔で彼は告げる。


 意識が薄れる。彼の顔が遠ざかる。意識と無意識の狭間。感覚と世界の境界線。いくら叫んでも、もうその声は届かない。それでも私は叫んだ。


 もう私のために、苦しまないで——。


 目を覚ました。そこは見慣れた我が家だった。


 一瞬、また夢かと考えた。

 そんなわけがない。

 海馬に鮮烈に焼き付けられた彼の記憶が、あの悲しそうな顔が、夢であるはずがない!

 これで全てが繋がった。


 最近のデジャヴや悪夢は、おそらく全て実在した世界のもの。今はなき世界での私の経験。私が彼を苦悩させた証。私はそれらをどこかで感じ取っていたのだろう。そしてさっきの世界だ。彼が私の手を握った時、私の脳に彼の記憶の一部が流れ込んできた。どういう理屈かは分からない。ただ、あの青く光る彼の右手と電気的に繋がることで起こった事象とみていいだろう。

 私は全てを理解した。私のせいで引き起こされた、彼の辛い経験を——。


 怒りのあまり、私は拳を床に叩きつけた。


 昔から守られてばかりの自分が嫌だった。ヒーローに守られるだけの存在じゃいられないと、何とかして変わりたいと、ずっと思ってきた。


 その結果がこれか。


 十億の私の全てが同じ。弱くて、無力で、彼に辛いことをさせるだけの、どうしようもないクズ。三千世界に至るまで彼を追い詰めた地獄に落ちるべき罪人。そんな私のために、彼は幾度も試行錯誤を繰り返して、絶望を味わって、それでも助けようとしてくれて。しまいには神になろうとすらしている。


 どうして?

 どうして私なんかのためにそんなことを?


 ——それは、私のことが好きだから。


 涙が止まらなかった。

 彼の想いに。彼の優しさに。自分の情けなさに。とめどなく溢れる涙が川となって頬を流れた。


 駄目だ。

 今は泣いている場合じゃない。

 彼を救わないと。

 泣くのはその後で充分だ。


 夢は呪いだと聞いたことがある。呪いを解くには夢を叶えなければならない。だが叶わなければ、その人は一生呪われ続けることになる、と。


 私を救うということが、彼にとって夢と呼べるものなのかは分からない。けれど確実に彼は呪われている。私のせいで呪われている。今まで彼はずっと、残酷な運命の螺旋の中でもがき苦しんで、そしてこれからも続けようとしている。


 すべては私のために。

 そんなこと、看過できるわけがない。


 彼には自分のために生きる権利がある。幸せになる権利がある。私のせいでそれが奪われていい道理はない。彼は今まで私を守ってくれた。救ってくれた。次は私の番だ。


 彼は世界を変える前、こんなことを言っていた。


 ——本当はこのままあの世界へ行くべきなんだろうけど、最後にもう一度だけこの世界を見ておきたいんだ。


 この言葉通りならば、彼はまだこの世界にいるはず。ならばまだ止められる。彼を救うタイムリミットはまだ残されている。

 急いで彼を思いとどまらせねば。

 そのために何を言うかはもう決まっていた。

 あとは彼に会うだけだ。

 神だか超越者だか知らないが、彼をそんなものにはさせない。

 これは今まで世界の全てで彼を苦しませ続けた私からの罪滅ぼし。そして、三千世界に渡って私を守ろうとしてくれた彼への恩返しだ。

 彼をこれ以上苦しめるものか。

 今度は私が、彼を守ってみせる——。


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