六 告白
六・一
小さい時から未知のものが好きだった。
自分に知らないことがあるのが許せなかった。
見たことのないものがあれば何でも見たがって、やったことのないものがあれば何でもやりたがった。東に噂話があれば頼まれてもいないのに検証しに行き、西に新しい店が建てば我先にと入店し、南にソースの不確かなことをいう者がいればそれはなぜかとしきりに問い詰め、北では常に未知の事象を求め続ける。私はそういう子供だった。
そして私は臆病だった。新しいことを始める直前、一歩を踏み出そうとする瞬間に感じるあの感覚。失敗への恐怖、未知への恐れ、踏み出すことへの葛藤、言葉に出来ない不安感。私はそれらを強く恐れた。それでも私は足を踏み入れた。やはり好奇心には抗えない。すると大抵は特に何事もなく終わるのだけれど、失敗することもしばしばあって、そのたびに私は泣いた。私は昔から泣き虫で、脆くて、傷つきやすい性格だった。そんな時に私を慰めてくれたのはいつだって彼であった。
彼とはもう十年以上の付き合いになる。昔から頑固で、意地っ張りで、偏屈な人だった。一度こうだと決めたら何があっても変えようとしなくて、よく親や先生を困らせていたのを覚えている。彼はずっと私を守ってくれた。私がしたいこと、行きたいところ、何だって彼は付き合ってくれた。彼がいれば何も恐れることはなかった。彼が守ってくれたから、私はありのままでいられた。
彼とは本当に色んなことをした。遊んで、勉強して、街中を探検した。目に映るもの全てが未知で、新鮮で、興味をかき立てるものばかりだった。だからあらゆるものに挑戦した。片っ端から首を突っ込んで好奇心を満たし続けた。それで失敗したり怒られたりしたこともあったけれど、彼がいれば平気だった。あの頃の私達は勇敢で、無敵で、まさに最強のふたりだった。彼と一緒なら怖いものなど何もなかった。
どうしてこんなわがままに毎回付き合ってくれるのか、と一度尋ねたことがある。すると彼はそっぽを向いて、意地でも答えようとしなかった。躍起になって問い詰めても彼が口を割ることはなくて、当時は悔しい思いをしたものだ。けれど一瞬見せたあの嬉しそうな、照れくさそうな顔から、私は彼が情けや惰性で一緒にいるのではないと悟った。きっと本心から付き合ってくれていると思えた。迷惑だったらどうしよう。嫌がっていたらどうしよう。彼の表情はそんな不安を吹き飛ばしてくれた。やっぱり勝てないな。そう思った。
小説を読ませてくれたこともある。中学に入ってから彼はよく小説を書いた。内容は軽い娯楽からハードな文学までとにかく様々で、アイデアが満載で、刺激的で、私はそれを読むのが大好きだった。どの作品も最後まで書き上げられたことがなかったのだけれど、それでも私は彼の創り出す物語を気に入っていた。そして何より、私が読了して感想を伝えた時に彼が見せるあの満足そうな顔が大好きだった。
本当に沢山の思い出だ。それらは今でも、全て私の胸の中で色とりどりに輝いている。こんなことを言うのは少し気恥ずかしいけれど、彼はきっと、否、間違いなく、私の初恋の人だった。
だが同時に憂いを感じることもあった。それは私に関することだ。年を重ねるにつれて幾分か成長したとはいえ、私は依然臆病で、傷つきやすくて、どうしようもない弱虫のままだった。彼のような人を守れる強さどころか、自分を守れる強さすら持っていなかった。私はそんな自分が大嫌いだった。彼から貰ってばかりで何も与えられていない、駄目な自分が情けなくて仕方なかった。守られるだけの弱い私がコンプレックスだった。だからよく一人で泣いた。思春期特有の不安定さもあったのだろう。自己嫌悪に陥って、泣いて、泣く自分を嫌悪して、また泣いて。その繰り返し。みじめで無様な悪循環。何度も死にたい考えた。そんな不甲斐ない私を慰めてくれたのは、やっぱり彼だった。
彼は私にとって、まるでヒーローのような人だった。私が一人で苦悩していると、彼はどこからともなく現れた。昔から感情が顔に出やすい方だったから、私が何を考えているかなんて大方バレていたに違いない。彼は私を優しく抱きしめてくれた。お前はそのままでいいんだ。そう言ってくれた。その優しさに、何度助けられたことだろう。彼は私を、悲しみと自傷の渦から救い出してくれた。
けれど同時に、このままじゃいけないと思った。彼に守ってもらうばかりでは、慰めてもらうばかりでは、私は変われない。強くなんてなれない。いつまでも、弱虫で泣き虫の、大嫌いな私のままだ。
そんなのは嫌だ。私は変わりたい。強くなりたい。彼に依存しているだけなんて許せない。ヒーローに甘えるままではいたくない。私は、私が誇れる私になりたい。そんな自己実現の欲求が、胸の内から溢れてきた。そのために何をすべきかは、もう分かっていた。
彼から離れよう。
それが最善の決断かどうかは分からなかった。何なら今でも分からない。だけどこのままではいけないことだけは明らかだった。今のままでは、多分これからも彼に甘えてばかりの愚かな自分のままだ。ならば彼の下を離れよう。彼から遠ざかろう。守ってくれる存在のいない世界で、地に足つけて生きていけるようになろう。そしていつか、彼を守れるような強い人になろう——。
そんなわけで、私はしばらくの間彼とは距離を置くことにした。
先輩と出会ったのはちょうどその頃だった。
二、三年所属していたバトミントン部に飽きると、私は次に軽音部に入った。昔から音楽は好きだったから興味があって、軽音部は前々から気になっていた。私が特に好きなのはロックで、チャック・ベリーやレッド・ツェッペリン、ザ・フーなんかが好きだった。ブルース・スプリングスティーンもお気に入りだったし、セックス・ピストルズのようなキツいパンクもよく聞いた。軽音部でロックを演奏できると知ってから、入部するまでそう長くはかからなかった。先輩とはそこで出会った。
先輩とは別に初対面というわけではなかった。彼の友達ということでたまに顔を合わせたりすることはよくあったのだ。でも本格的に関わり始めたのはこの時からだった。先輩とは音楽の趣味がバッチリ合って、よく音楽について語り合った。毎日のように二人でセッションをした。先輩との会話を毎晩心待ちにしていたことをよく覚えている。話が面白いというのもあるのだが、何よりも聞き方が上手かった。話を聞く姿勢というものコミュ力に含まれるというそうだから、そういう意味で先輩は非常にコミュ力の高い人なのだろう。基本的に私が喋っている時は黙って聞いてくれるし、喋ってほしいタイミングで喋ってくれる。助言や指摘も正鵠を射ていて、耳が痛いのも多かったのだけれど、どれも私の成長に役立つものばかりだった。私はすぐに先輩を信頼できた。
先輩との時間はとても大切なものだった。私は先輩といる時が好きだった。もっと言うなら、先輩といる時の私が好きだった。先輩と一緒なら、私はただ守られるだけの無力な存在から脱却できる。対等な関係でいられる。そんな気がした。互いに論じて、歩んで、高めあうこと。それは多分、とても健全な関係。それこそ、私が真に望んでいたものだった。
いつ頃からだろうか。私は心の中を先輩が占める割合が、日に日に大きくなっていることを悟った。知らぬ間に私は先輩を強く求めていた。先輩のことが気になって仕方なかった。もっと見たい。知りたい。話したい。廊下ですれ違うたび、彼と話しているのを見かけるたび、私は無意識に目線の先で追いかけていた。先輩と会いたいがために電車の時間をずらしたり、下校の時間をわざと合わせたり。色んな工夫を凝らしてみた。先輩が他の女子と会話しているのを見ると嫉妬と羨望で胸が張り裂けそうだった。先輩とギターを弾きあうと、体が燃え尽きてしまいそうなほど気分が高揚するのが分かった。先輩のことを思うと顔が火照って、明日はどんなことを話そうかと考えると胸が高鳴った。欲求を堪えられなくて何度も指で自分を慰めた。自分でも何やってるんだろうといつも思ったのだけれど、衝動を抑えることはできなかった。未だかつて経験したことがないような欲望と、情熱と、興奮とが頭の中で渦を巻いていた。それはとても生々しくて、醜悪で、ドロドロとしていて。でも妖艶で、甘美で、そして本当に心地よい感情だった。
——それを恋と呼ぶことに気づいたのは、すぐ後のことだった。
私は同時に二人を好きになってしまった。
高一の私は、そのことでずっと苦悩していた。私は確かに彼のことが好きだった。昔から変わることのない、彼への信頼、友情、愛情。それらはただの友達に向けるものとはまったくの別物で、私はそれこそが好意だと思っていた。でも先輩と出会って、さらに異なる感情が感覚の海から沸き上がってきた。それは友人や、家族や、彼へ向けるものとさえ違う思いだった。決して美しいものでなければ高次のものでもない。もっと汚くて、動物的で、低俗なもの。けれど人間ならば誰でも持つであろうもの。そして間違いなく好意と呼べるもの。
では果たして、どちらが本当の好意なのだろうか。
私には分からなかった。私にとってはどちらも大事な感情で、二人とも大切な人だった。でも二つともというわけにはいかない。私が本当に好きなのはどちらか、本当に思いを伝えたいのはどちらか、いつかはそれを決めなければならない。私は選択を迫られた。
結果を言うと駄目だった。
木の葉が枯れて、雪が積もって、やがて蕾が芽吹きだして。それでも私は決められなかった。決めることなんてできなかった。振られることが怖かった。今の関係性が壊れることも怖かった。何よりどちらかを選ぶのが一番怖かった。やっぱり私は臆病で意気地なしのままであった。そうやって怖気づいていたらいつの間にか進級していて、二人は受験モードに突入した。
タイムオーバー。
私はただ二人を応援することしかできなくなっていた。
そうこうしていると、今度は私の番が来た。私が志望したのは地元の街の国立大学。そこは奇しくも両名ともが進学した大学だった。別に二人がいる場所だから目指そうとしたわけではない。ただ勉強したい学部がそこにあったから。それだけだ。けれど、そこに行けばあるいは決心がつくかもしれない。そう思ったのは事実である。とはいえ受験戦争中に恋愛に呆けるわけにはいかないので、私は一旦この思いを胸にしまっておくことにした。長く苦しい戦いの末、私は第一志望に合格した。
入学して、二人と再会して、そして時は過ぎていった。やっぱり決めることはできなかった。決められるわけがなかった。私は苦悩した。また自己嫌悪の渦に呑まれた。こんなことなら死にたい。こんなに悩むなら、胸が締め付けられるなら、今すぐにでも死んでしまいたい。そもそも私に生きる価値はあるのか。どちらかを選ぶなどという傲慢な行いをしようとする私は生きるに値するのか。私のような罪深い人間は、死んで然るべきではないのか。そんなことばかり考えていた。だけど実際に死のうとすると怖くなって、でもこんな想いを抱えたまま生活するのも嫌で、何かあるたびに彼や先輩の優しさにすがろうとする自分も嫌になって、また死にたくなって。この情けない無限ループを、私はずっと続けていた。
——あれが始まったのは、ちょうどそんな時だった。
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