五・五
——結論から言おう。
何も起きなかった。
いや、違う。
何も起こさなかった。
僕は怖気づいたのだ。
あの世界をもう一度確定させれば、僕は間違いなく人間に戻れなくなるだろう。さっき帰ってこれたのはほとんど偶然だ。次もまた帰れる保証はどこにもない。そうなれば、もう人として栞と話すことは不可能になる。
それだけではない。
誰かと笑うことも、何かに感動することも、怒ることも、泣くことだって二度とできなくなる。学ぶことも、教えることも、旅することも、作ることも、何かに挑戦することも、人間らしいことは何一つできなくなる。人の限界を超えるということはそういうことなのだ。そうして人をやめて超越者となった世界で、未来永劫栞を守り続ける存在となった自分を想像すると、怖くて仕方がなかった。
この期に及んで何を恐れることがあるか、と思うかもしれない。実際僕も当時そう思った。
けれど、どうしても僕はあの事態を確定させる気になれなかった。
超越者になったところで僕が死ぬわけではない。むしろ永遠に生き続けることができるかもしれないし、そもそも生とか死とかいう概念すらないかもしれない。それは僕には語りえないことだ。しかしその事態の確定はすなわち僕の人生の終焉を意味する。その事態が事実になった時点で人としての僕は世界から消滅する。
つまり人に観測可能な僕は消えてなくなるのだ。
そうなればもう誰も僕のことを知覚できない。誰も僕のことを覚えていない。父も、母も、雨宮も、押井も。最も大切な人である栞からも忘れ去られて、僕は一人彼女を守るために宇宙を彷徨って悠久の時を過ごすのだ。そんなことを軽々しく決定できる度胸と行動力は、僕には無かった。
あの日の誓い。
何があっても栞を守る。
何をしてでも守り抜く。
実際今までもそうしてきた。どんな世界だろうが、どんな自分だろうが、僕はずっと栞を守るために生きてきた。いつだって、栞のためなら何であろうがすることができた。今だってそうだ。彼女のためなら、僕はどんなことだってしてやれる。
でもこれは。
これだけは。
大切な人たちの記憶から完全に消えてしまうなんて、僕には——。
それから僕はずっと苦悩していた。
いつまでも答えを出せずにいた。
そんな日々が一週間くらい続いていた。
栞から電話がかかってきたのは、ちょうどそんな時だった。
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