五・六
「急に呼び出してごめんね?」
栞は僕のバイクのタンデムシートに乗っていた。耳を澄まさなければ、今にも行き交う車の喧騒に呑まれて消え入りそうなそのか細い声に、僕は悲しみを覚えた。
この世界で、彼女は病人だった。中学三年の秋に倒れて以来、二年間ずっと病院で暮らしていた。本来ならば高校生活を謳歌していただろうに、彼女は通学を諦めて治療に専念せざるをえなかった。白血病とのことだった。
今度こそ助けられるかもしれない。
始めはそう思った。
先の世界での経験から、僕には潤沢な医学の知識があった。今より遥かに医学が発達した世界を幾つも見てきた。それらの世界では、すでに白血病を完治させるメソッドが確立されていた。それを使えばあるいはと、期待に胸を膨らませた自分がいた。
だが現実はやっぱり残酷だった。
病状を聞いて、臨床診断して、彼女のカルテを盗み見て。
そして確信した。
彼女が死ぬことは止められないと。
彼女は確かに白血病だった。だが程度が違った。
ウェイン症候群。
いつかの世界ではそう呼ばれていた。
スタンリー型がん細胞によって引き起こされる重度の白血病のことで、がんに対する特効薬が完成していた世界でも厄介もの扱いされていた病気だ。体内で爆発的に突然変異を繰り返すスタンリー型がん細胞は非常に不規則な変異を遂げる特殊な細胞で、患者ごとに毎回一から薬の成分を調合しなければならない。もっとも量子コンピュータが広く実用化されていた時代では余計な手間と費用がかかるだけで大した脅威ではなかったのだが、こと現代となると話が変わる。量子コンピュータがまだ不完全なこの時代では、あの膨大な組み合わせを解くのは難しいだろう。それに何よりがんへの理解が発展途上で、スタンリー型がん細胞もウェイン症候群も未発見の現代医学では彼女を治すことなど間違いなく不可能である。無論僕が今から医学の道に入ってパラダイムシフトを起こすことも可能だが、それには一つ大きな問題があった。
その頃まで栞は生きられないのである。
僕が行ったのはあくまでカルテの確認と臨床診断だけだ。だから正確なことは言えない。だがこれまで数々の患者を診てきた経験と、何より数億の世界で培われた僕のジンクスから、僕は栞の大まかな死期を悟った。それは僕が記憶を引き継いでから約一週間後。
つまりこの日のことだった。
「ごめんね、こーちゃん。受験勉強もあるのに、私のわがままに付き合せて」
「だからいいんだって。お前の望みなら僕は何でも叶えてやるから。それよりもう喋るな。落ちないように腕に力入れろ。いいな?」
「うん。分かった」
ささやくような声で栞が言う。腰を締め付ける力が微かに強くなった。
彼女からの電話がかかってきたのは、夜の七時を回った頃。予備校の帰りに彼女のいる病院に見舞いに行こうと思っていた矢先のことだった。何でも流星群を見に行きたいのだという。調べてみると、今夜はやぎ座流星群の観測のピークらしかった。容態も日に日に悪くなるばかりだし、何より今夜か明日が峠だと予想していたから、流石に二つ返事とはいかなかった。けれど、このまま病室の中で一生を終える方がよっぽど酷なように思えたので、僕は彼女を病院から連れ出すことに決めた。もう彼女を救うことができない以上、僕にはこれくらいしかしてやれなかった。
「大丈夫か? もうすぐ着くからな」
僕の呼びかけに返事はなかった。ただ荒い呼吸音が聞こえるだけだった。
早くしないと。
バイクは彼女を苦しめるだけだ。
僕はアクセルを捻って道を急いだ。
しばらくして着いたのは、山を抜けた先にあるキャンプ場だった。あまり有名なところではないらしい。広々としたなだらかな丘陵地帯にはテントはまばらで、少し離れたところに行くと僕らの他には誰もいなかった。昼間のうだるような暑さはすっかり鳴りをひそめ、爽やかな冷気が肌を撫でる。ここは開けたところにあるから視界は大変良好だ。しかも都市部から結構離れているので、天体観測にはうってつけとのことである。今はもうただの事態となった世界で、栞から教えてもらったことだった。
「わ、すごい……」
頭上一面に広がる壮大な星空に、彼女は息を呑んだ。宇宙の真ん中にミルクをこぼしたような天の川や、色とりどりの無数の星々が、深い藍色の空に爛々と輝いていた。ともすれば吸い込まれてしまいそうな美しい夜空が、世界の果てまでどこまでも広がっていた。あらゆる国に赴き数々の絶景を見てきた僕が驚くほどなのだから、二年間ほとんど外に出ることのなかった彼女が目を奪われるのも無理はない。現実のことだというのに、まるで夢でも見ているかのようなその表情を見て、僕は連れて来た甲斐があったと安堵した。
「見て見てこーちゃん! すごく綺麗だよ!」
「そうだな。素晴らしい眺めだ」
「私こんな景色初めて見た! こんなの写真でしかないと思ってた! でもあるんだね、本当に!」
栞は芝生の上で空を見上げながらはしゃいでいた。栞のこんな楽しそうな顔を見るのは随分と久しぶりである。病室にいた時の彼女もよく笑っていたが、これほど良い笑顔を見せたことはなかった。その姿が、まだ入院する前の幼い彼女の姿と重なって、僕は連れてきてよかったと心の底から思った。
「ねえ、これってこの星で一番綺麗な景色なんじゃないかな。世界中どこを探しても、絶対こんなすごい光景見つからないよ」
「そんなことないぞ。世界にはもっと凄いのがいっぱいある」
「えー? 嘘だそんなの。ここのが最高だって」
「嘘なもんか。ニュージーランドとかアイスランドとか、ナミブ砂漠も星も凄かったな。あーでも、ウユニ塩湖で水面に星空が映ってた時なんか格別で……」
「もしかして、こーちゃん行ったことあるの?」
しまった。
つい別の世界の記憶が出てしまった。
「あ、いや、写真での話な。あと動画とかさ」
「何だ、行ったことないんだ」
「今の僕には、な。高校生には難しい」
「そうだよね。でもいつか、大学に入ってからでも行ってみたいな」
その言葉が僕の心に重くのしかかる。
僕は知っているのだ。
彼女が大学に入ることはないと。
いつかが訪れることはないと。
人の寿命など、未来など、知るものではない。そう強く実感した。
「……ああ。いつか必ず」
「その時はこーちゃんも一緒に来てね?」
「僕もか?」
「もちろんだよ。やっぱり一人じゃ寂しいでしょ?」
「それもそうだな。それにお前の一人旅なんて怖すぎるな。危なっかしくてしょうがない。僕が付いてって守らないと」
「そう……だね」
一瞬彼女の表情が曇った気がした。
「あ、ところで海外に行くならどこ行きたい? やっぱりアメリカ? それともイギリス? インドとかも面白そうだよね!」
「なんだか楽しそうだな」
「当たり前だよ! だって海外だよ? 私一回も行ったことないんだよ? そりゃ夢が広がっちゃうよ」
栞が声を弾ませながら、青々とした草原の上でくるくると踊るように駆け回る。どの世界でも変わらない、いつも通りの元気な彼女の姿がそこにあった。
「でも、やっぱり一番行きたいのはイタリアかな」
「へえ、いいじゃないか。あそこは最高だ」
「だよねだよね。私イタリア大好きなんだ。いつか旅してみたいなあ。こーちゃんみたいにバイクに乗って、イタリア中を。シチリアにローマにポンペイに、ナポリにフィレンツェに……」
「おいおい、まさかシチリアから乗ってく気か?」
「さすがにそれはないよ。乗りはじめるのはポンペイから。それまでは飛行機と船かな」
「なるほど。ならかっこいいバイクを探すことだな。多少値は張っても、バイクのビジュアルにはこだわった方がいい。好きな見た目のに乗るってのは、一番テンションが上がるもんだ」
「いやいや、私はオンボロバイクで充分」
「そんなのでいいのか?」
「うん。きっと金欠大学生のヴァカンツァなんてそんなものだよ。それでね、最後にはヴェネツィアに行くんだ。私の憧れの街。あそこだけは絶対に……」
そう言うと栞は口をつぐんでうつむいた。まるで何かを悔しがるかのように。
——まさか、自分の死期に気づいて……?
いや、そんなはずはない。
とにかくここは、何か明るいことを言うべきだ。
「いい夢だと思う。とてもいい」
僕が微笑むと、彼女の顔はすぐにぱっと明るくなった。
「でしょでしょ? 病院にいる間ずっと考えて……」
何かを言いかけて、彼女は口を開けたまま固まった。そして僕の後ろの方を指さして一言、流星群、とだけ呟いた。
後ろを振り向いて上を見る。
夜空に星が降っていた。
瞬く星たちの間から現れては消え、現れては消え、青白い軌跡だけを残して去っていく。そんな星の雨が幾つも流れていた。火球の描く光の筋が暗闇に輝いていた。
自然が生んだ神秘。
銀河の創り出した幻想。
あまりに美しいその光景に、僕は呆然とすることしか出来なかった。
「やっぱり、これが一番綺麗だよ」
栞がポツリと小さく言った。また反論しようかと思ったけれどやめた。たとえ世界に、全ての事態にどれだけ美しい景色があるとしても、彼女と眺めるこの景色が、今の僕にとっては一番だった。
「ありがとう、こーちゃん。ここに連れてきてくれて。こんな絶景をこの目でみ見れたらって、私ずっと病室で考えてたの。だから嬉しい。本当に、本当に……」
震えた声で話す彼女は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。その姿がとても儚く思えて、気づけば僕は抱き寄せていた。すっかり痩せてしまった体に腕をまわす。少しでも力を入れればたちまち折れてしまいそうな彼女に、何もしてやれないのが悔しくて仕方なかった。
「言ったろ? お前の望みなら僕は何でも叶えてやるって。このくらい、どうってことないよ」
耳元でささやく。それからすぐに彼女の体を離して、
「ところで、どうして僕に頼んだんだ? 押井の方がよかったんじゃないのか?」
少しおちゃらけるように言ってみた。少しでも彼女を明るくしてやりたかった。でも実際疑問であった。押井もまた彼女を甲斐甲斐しく看病した者の一人だったし、何よりこの世界でも彼女は押井のことを好きなはずだ。だから何故僕を選んだのか気になっていた。
「だって押井先輩は免許持ってないでしょ?」
栞はいたずらっぽく笑ってみせた。
「そんな理由かよ」
「冗談冗談。ホントはね、久しぶりに話したかったの。こーちゃんと二人で」
「二人でって。毎日見舞いに行って、いつも話してるじゃないか」
「ううん、そういうのじゃなくて……」
すると栞はうつむいて、悲しそうな表情を浮かべた。
「確かに毎日喋ってるけどね、でもなんかちょっと違くて。すごく表面的っていうか、何ていうか。多分最近のことなんだけど、でも凄く前から。それこそ何万年とか何億年とか、そのくらい長い間、ちゃんと話せてない気がするの。それに何だかこーちゃんがすごく遠いところにいるような気もして。何言ってるか分かんないと思うけど、でも、やっぱり距離があるように感じちゃうんだ」
正直驚いた。
僕も同じことを考えていた。
始まりの世界で栞が死んでから、僕はずっと彼女を守るためだけに行動してきた。一挙手一投足全てを捧げる気でいた。そのせいか、あれ以来僕は彼女とまともに会話した記憶がなかった。無論一切話をしなかったというわけではない。だがそれは対等な立場にある一個人としての対話ではなかった。会話中も常に彼女を守ることだけを考えていて、真っ直ぐ向き合って本音で話し合うようなことはしてこなかった。少し寂しかったけれど、それで彼女が助かるならと妥協した。もしや彼女はそれを感じ取ったのか。事実を確定させる度に記憶を引き継げるのは僕だけでも、原始的な感情や曖昧な感覚ならばあるいは他の者にも引き継げるのかもしれなかった。
「それは——」
だが。
「きっと気のせいだよ」
それで何になるというのだろう。
「病院生活が長いからそう錯覚してるだけさ」
僕がここで真実を告げたところで。実は世界を変え続けていると、お前の死んだ事実をなかったことにしていると、そう説明したところで。果たして何が変わるというのだろう。きっとあらぬ誤解を招くか、あるいは狂人と思われるかのどちらかだ。そんな疑念を持ったまま、彼女に死んでほしくはない。不安は出来る限り取り除いてやりたい。
僕に出来ることはそれだけだから——。
「んー、やっぱりそうなのかなあ」
「そうさ。多分疲れてるんだ」
「そっかー。でもね、こーちゃん。それでも、今日ここでこーちゃんと話せて嬉しかったのは本当だから」
その屈託のない笑みに、僕は少し気恥ずかしくなってしまった。
「僕もまあ、それなりに嬉しかったけど……」
彼女を直視すると体が燃え尽きてしまいそうで、僕は後ろの空に視線を逸らした。
「あ、おい見ろよ」
いつのまにかまた現れていた流れ星を見つけて指をさす。
「また新しい流星群が……」
その時、背後で鈍い音がした。
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