五・四

 次に目を覚ました時、僕は泣きながら嘔吐していた。


 あの世界は何だ?

 一体何が起こったんだ?


 頭の中で疑問符が渦を巻いていた。自分の記憶が理解できなかった。経験と記憶を適切に処理できず、僕はパニックにも似た状態になっていた。歯をがちがちと鳴らし、口から溢れるよだれを拭うこともせずに僕は部屋の隅で震えていた。ただ一つ確信できたことは、僕が普通の人間に戻れたということだけだった。


 あの世界はマジでイカレてる!

 あの世界は間違いなく、人の理解と経験の果てを超えている!


 ほとんどの記憶が明晰に思考することのできないものだったが、僕は本能的にそれを理解した。


 畜生! 畜生! 畜生! 本当に危ない所だった。僅かに残っていた普通の理性のおかげで僕は世界を変えることができた。少しでも長くあの世界にいたら、僕は確実に人に戻れなくなっていたことだろう。そうなっていたら、僕は——。


 想像したらまた吐いた。

 しばらくの間、僕は怯えることしかできなかった。


 やがて段々落ち着いてくると、僕はようやく自分の身に何が起きたのか理解できるようになってきた。


 あの世界で、僕は確かに超越的存在になった。端的に言えば人間をやめていた。人の捉えられる宇宙から——多分この三次元空間からも——解離した存在になっていた。そこまでは分かる。だがその時の僕が何を考え、何をしていたのか。それは今でも分からない。

 否、厳密に言えば分かることには分かる。ただ言語化することがどうしてもできない。僕はあくまで直観的、感覚的に自分の経験を理解出来るだけで、言葉にして明晰に分析することはできないのだ。もし無理やり言語化しようものなら、きっととんでもなく支離滅裂な文章になってしまうことだろう。踊るギリシア人に鳥脚の女、ゼリー脚のアンドロギュノスに……と、こんな始末になってしまう。これでも精一杯頑張って言葉を紡いでいるのだが、どう足掻いてもナンセンスな文章になるのは避けられない。


 そうか、きっとこれが語りえぬことなのだ。先の経験は我々の言語と思考の、ひいてはこの世界の限界を超えているに違いない。


 だが、言葉にできることもあるにはある。

 それは、あの世界の僕に明確に意識があったということだ。


 僕がこうして人間の僕に戻れたのは微かに残されていた人としての理性によるものだが、それとは別に超越者としての理性もまた僕には備わっていた。理性があるということは自我と意識も当然あったはずだ。これも上手く文章にはできないのだが、間違いなく超越者の僕は何かを考え、行動し、世界に干渉していた。そしてずっと栞を探していた。太陽系の惑星やその他の衛星の間を、肉体を持たない身で狂ったスズメバチのようにぶんぶんと飛び回り、最後に地球で栞を見つけた——と、多分そういうことだったのだろうと思う。まるでワイドスクリーン・バロックのような話だが、今の僕にはそうとしか表現できないし、それ以外のことも語れない。結局神や仏の思うところなど、いっぱしの人間には理解しようがないのである。


 だが、この経験はあるいは非常に大きな進展ではなかろうか。


 あの世界の僕は、今までの世界の僕の中で間違いなく最強だ。何せ人には観測できず、三次元宇宙の外側にいてこの世界に干渉できる存在である。これを超える存在は後にも先にもそうそう現れないだろう。あの僕なら今度こそ、栞を守ることができるかもしれない。仮に失敗したとしても、きっと四次元的存在として時間に干渉して時を遡ることさえできるだろう。どうしてそう言えるのかは分からないが、それでも僕には確信があった。あの僕なら守り抜けると断言できた。


 これが、きっと僕の探していた答えだ。

 僕は確信する。


 これこそが幾千、幾万の世界を超えた先、N個目の世界でついに見つけた真理なのだ。


 ようやく、僕の求めた事態に出会うことができた。

 ならば、今すぐ事実にしなくては。


 僕は右手を宙にかざした。

 これが最後のトライだ。

 目を閉じる。


 さあ、全てを終わらせよう——。

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