三 美徳の不幸
三・一
高校生というのは大変に興味深い存在である。彼らは得てして非常に多感な存在であり、大人にも子供にも属さぬモラトリアムの真っ只中で肉体的にも精神的にも大きく成長を遂げる。未だ子供として庇護される存在であるが徐々に大人としての片鱗が見え始め、また現体制への反抗心をたぎらせる若者らの仲間入りを果たすのもこの頃だ。
そうした変革の時期だからこそ高校生活というのは面白い。数え切れない程の世界を渡り歩いてきた僕だが、やはり一番楽しかったのは高校生をやっていた時だ。自由で好きなことができる大学生も悪くないものだが、やはり何度も経験していると飽きてくる。例えば大体七百二十回目くらいの世界では——。
おっと、いけない。
話を先走ってしまったようだ。
とにかく、まずはあの日のことを話さねばならない。
全てが変わった、始まりの世界のあの日のことを。
「ふー終わった終わった」
帰りのホームルームが終わり、いつものように帰宅の準備をしていると、押井が僕に話しかけてきた。
「よーやく夏休みまであと一週間ってトコだな」
彼は人の少なくなった教室を見渡すと、気持ちよさそうに伸びをした。
押井は僕の親友である。下の名を秋彦という。彼はたいそう愉快な人間であった。学年でも一二を争う秀才で、社交性やトーク力も持ち合わせていて、おまけにやたらと顔がよい。のだが、なぜだか馬鹿か阿呆か、さもなくば間抜けかという印象を受ける。どこか抜けてるやつ、という評価がきっと正しいのだろう。あり得ないほど素直で純粋であり、お人よしだが騙されやすい。だからクラスメイトからよくからかわれていた。彼はクラスの皆から愛される存在であった。
そして僕と彼は、中学の時から妙に馬が合った。友達百人できるかなと言われれば僕などでは半分も作れぬというのに、余裕で百人作ってさらには他校の百人まで友達にしてしまうような社交性の鬼である押井はやたらと私に話しかけてきたし、随分丸くなったとはいえ依然偏屈な気質な僕も不思議なことに彼には心をさらけ出せた。阿吽の呼吸ができる程心が通じ合い、長年連れ添った夫婦の如く仲睦まじい。それが我々の関係なのであった。
「なあ相棒。俺思うんだけどさ、たかが二週間とそこらであの量の課題っていうのはさすがに酷じゃないか? あれはいくらなんでもないよなあ」
「そうか? 僕はもう英語終わったが?」
「は? 許せん」
「ふふん、精々頑張ることだ」
いつも通りの他愛のない会話しながら僕らは教室を出た。そこで僕はふと放課後の予定を思い出して、押井に尋ねてみることにした。
「なあ、今からファミレス寄ってかないか?」
「ファミレス?」
「ああ、今日の放課後に雨宮達と駄弁ろうって話になってるんだ。お前もどうだ?」
「うんにゃ、魅力的な提案だが今日はやめておくよ」
「どうしたんだ、つれないな」
「悪いがコイツがあってね」
押井は背中に背負ったギターケースを叩いてみせた。彼は軽音部に所属していて、この日はちょうど練習日だったのだ。
「なるほど、それは仕方がない」
「分かってくれたか、友よ」
押井の所属する軽音部のライブは何度か見たことがある。ひどいことを言うようだが、お世辞にも上手いとは言えない演奏であった。ノイジーなサウンド、粗末な演奏、ドラマチックさの欠けた展開。どう転んでも一流にはなれない。そんな音楽だった。だが僕は彼らのバンドがお気に入りだったし、何なら今でもそうある。
彼らの歌には、今の時代には失われてしまった反骨精神と純真さがあった。彼らはただ自由に、伸び伸びと、自分たちの奏でたい音楽をかき鳴らしていた。窮屈な学校や鬱屈とした社会への不満を叫び、試したい技巧があれば何でも試し、ただただ楽しい音を求め続ける。まとまりはなく、完成度なんてものもない。「音楽」という名の示す通り音を楽しみ続ける快楽主義者。僕はそこにたまらなく惹かれた。
それゆえ歌詞を提供したこともある。その頃でもまだ小説は書いていたから、執筆で培った文章力を存分に作詞活動に活用することができた。すっかり落ち着いたとはいえ僕の反抗心の強さは相変わらずだったので、僕の歌詞はバンドメンバーにも気に入られた。はっきり言えば、僕は彼らのファンだったのだ。
もっとも、それは彼らの音楽性に魅せられたから、という理由だけではない。何を隠そう、栞もこのバンドのメンバーだったのである。
「ん、古賀?」
階段を降りたところで、押井が何かに気づいたような声をあげた。
「あれ、押井先輩じゃないですか」
押井が声をかけた人物は栞だった。
高校一年になった栞はますますその美しさに磨きをかけ、快活で可憐な黒髪の乙女として男女問わず不動の地位を確立していた——はずだ。この評価には僕の主観と偏見が多分に含まれ過ぎているから実際のところは不明だが、やはり人気だったのは間違いないと思われる。ギターケースを携えた彼女は僕らを見つけると、律儀にぴょこんとお辞儀した。
「押井先輩今からですか?」
「そそ。そんじゃ一緒に部室行くか」
「了解です。こーちゃ……あ、先輩も今帰りなんですか?」
いちいち言い直さなくてもいいものを。しかも先輩とはまた丁寧なことで。
「ああ、今ちょうど出るところだ」
「そうなんですね、お疲れ様です。じゃあ、また明日」
あのそそっかしい栞がいつの間にこんな礼儀を覚えたのやら。中学時代は僕にも押井にもタメで話していたというのに、どうやら随分と成長したらしい。嬉しいような、寂しいような。少し複雑な心境である。
高校に上がってからも、彼女とは仲良くやっていた。とはいえ交友関係というやつは、三年も経てば少なからず変化するものだ。だからもう、昔のようにいつもべったりというわけにはいかない。だが今でも休日は一緒に遊びに行ったり、互いの家に行ったりはするし、私小説を読んでもらうことだってまだある。時が経っても、気の置けない親友としての関係が変わることはなかった。といっても、実のところは変わっていてほしいものなのだが——。
「あ、そうだ」
押井は不意に何かを思いついたような顔で僕を見た。
「お前今日どう? 久々にウチの部室来ないか?」
「軽音のか? どうして?」
「今日は文化祭に向けての練習やんだよ。ちょっとくらい聞いていきな。お前が作詞した曲もやるんだぜ」
「ふむ、そうだな」
悪くない提案だった。魅力的とも言い換えられる。このところ軽音部の演奏はご無沙汰だったので久しぶりに見てみたい気はあった。それに何よりも栞に接近できる良い機会だ。断る理由はどこにもない。
が、この日は雨宮との先約があった、いくら好機とはいえ、約束を反故にするというのは何だか気が引けるものだ。背に腹は代えられぬ。今日のところは断ることにしよう。
「悪いが今日は遠慮しとくよ。また別の日にな」
「えーいいじゃん、あ、いいじゃないですか。何でダメなんです?」
「今日は予定があるんだよ。仕方ないのさ」
「ま、それもそうだよな。残念だが諦めよう。でもいつかは絶対来いよ、相棒。夏休みにもやってるからよ」
「気が向いたらな。じゃあ栞、部活頑張れよ」
「うん、あ、はい。先輩も楽しんで」
そして栞は微笑んだ。その顔に少しだけ曇りがあるように見えたのが気になったが、僕も彼女に微笑み返した。
……どうにか、上手く振舞えただろうか。
この動揺を二人に悟られるわけにはいかないものな。
楽しそうに廊下を歩く二人を見つめながら、僕は安堵のため息を吐いた。
当時、僕にはある悩みがあった。
それは栞への恋心に関することである。
前述の通り、僕と彼女との関係性は高校に上がってからもさほど変わりはしなかった。だがそれは、即ち恋愛面での進展がほとんどないことを意味する。実際恋を自覚した夏のあの日から、僕は彼女に何一つまともなアプローチを仕掛けられずにいた。理由は単純明快。僕がヘタレだったからだ。
人を恋愛強者と恋愛弱者に分けるなら僕は間違いなく後者に分類される人間だ。友人として接している時は特段緊張などしないのだが、いざ恋愛対象として捉えると途端に何も考えられなくなってしまう。一応僕なりには頑張っているつもりだったのだが、その実全く意味がないものばかりだったようである。だからこの頃は強い焦燥感に駆られていたのだが、やはり何もできないままだった。
このままでいいのだろうか。
いいわけがない。
けれど、現状を大きく変えられるような行動力も、それに必要な勇気も、僕は持ち合わせてはいなかった。
眩しい日差しを投げかける遠くの西日が、僕を急かすように少しづつ傾き始めていた。
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