二・四

「うん、やっぱりここはいつ来ても綺麗……ね?」

「ああ、これはなかなか素晴らしいな」


 昼間の暑さが落ち着き始め、夜の気配を感じさせる涼しい風が吹き始めた午後三時半、僕らはこの街の坂の頂上にある異人館に来ていた。

 明治時代にドイツ人の商人によって建てられたというこの館は、ネオ・バロック様式を基調とした煉瓦造りの重厚な外観をしている。内観も同様にドイツの伝統的なデザインではあったが、家具や壁紙にアール・ヌーヴォー様式が見られるところが時代を感じさせた。


「こーちゃん見て見て、この置時計すっごいお洒落じゃない?」

 何度か来たことがあると言っていたわりに、栞はまるで初めて訪れたかのような様子で部屋を眺めていた。あの椅子が、あのシャンデリアが、あの燭台が。無邪気に歩き回る彼女はとても楽しそうで、見ているこちらも楽しくなってくる。そして彼女が解説を読むときに覗かせる真剣な目つきと、その端正な横顔に、僕は自分の胸が轟くように踊っているのが分かった。教会にいた時と同じ感情だ。そしてそれが何故だか分からないのが気にかかるのも同じだった。


 栞は驚くほど館と調和していた。ドイツ風の優美な西洋建築と、純白のワンピースに身を包んだ栞の姿。その親和性は非常に高く、僕は時折彼女がこの家の住人であるかのような錯覚を受けた。聞けば、ここの家主であった貿易商にも娘さんがいたらしい。二百年以上前のドイツ人の少女も、彼女と同じようにこの家ではしゃいでいたのだろうか。僕は栞のことを見守りながらそんなことを考えた。こんな家に彼女と住めたなら——そんな考えがふと頭をよぎった。


 一通り屋敷を見終えてから、僕らは外に出た。異人館の正面には円形の広場があり、入った時には人が大勢いたのだが、僕らが戻ってきた際にはどうしたことか異様に数が減っていた。

 後で知ったことだが、どうやら隣にある別の広場にSNSで有名なダンサーが来ていたそうで、多くの人がそれを見に行ったらしい。そんなわけだから、正面広場はほとんど貸し切りのようになっていた。


「……すごい」

 広場から見える景色を見て、彼女はそう小さく呟いた。言葉には出さなかったが、僕もそう思った。


 高台から見下ろす僕らの街はとても美しかった。眼下の中心街には空へ手を伸ばすようにところ狭しとコンクリート製の木々が生えていて、その間を縫うように線路と道路が伸びている。奥には穏やかな海が広がっていて、果てしない水平線の向こうに盛り上がった入道雲が僕らを見下ろしていた。

 それは素晴らしい景色だった。

 僕が静かに見とれていた。

 すると不意に彼女が僕の前に立って真っすぐにこちらを見つめてきた。


「こーちゃん、今日はありがとね」


 そう言った彼女の顔つきがあまりに神妙なものだから、僕は思わず笑ってしまった。

「なんだ急に、らしくもない」

「こーちゃんはさ、いつも私のワガママに付き合ってくれるでしょ?」

 それはお前がそそっかしすぎるからだ、と言いたくなったが、そういう場面ではないかと思ってぐっとこらえた。


「私さ、ドジだし不器用だし、何やってもヘマばっかりで毎回人に迷惑かけちゃう。だから嬉しいんだ、こーちゃんがこうやって私を守ってくれてるのが」

「守るって、僕は何もしちゃいない。ただお前について回ってるだけだ」

「ううん、それがいいの。ずっと私を見守ってくれてる」

 ありがとう、と栞は笑った。

 僕はなんだか照れくさくて、彼女の顔を直視できなかった。心臓がロックンロールのビートを奏でていた。体が熱くて、喉が渇いて、頭の先が痒かった。


 彼女が口を開く。

 青葉の香りのする風が頬をなでた。

 その時の光景が今でも忘れられない。


 揺れる花。

 ざわめく木々。

 青い空。

 そびえ立つ入道雲。

 宙に踊る黒髪。

 風にたなびくワンピース。

 栞が言う。


「君とここに来れてよかった」


 その瞬間、僕は全てを理解した。

 僕は栞に恋をしたのだ。

 彼女の無邪気さに。

 脆さに。

 好奇心に。

 勇気に。

 優しさに。

 そして僕を新たな世界に導く彼女の好奇心に。

 僕は心を奪われてしまったのだ。


「ねえ、こーちゃん」

 彼女が尋ねた。


「これからも、私を守ってくれる?」

「ああ、もちろんだ」


 この時僕は誓ったのだ。

 何があっても栞を守ると。

 僕の惚れた人は何をしてでも守り抜くと。

 全ては栞の幸せのために。


「ふふ、ありがと」

 少し恥ずかしそうに微笑む彼女は、とても美しかった。


 ——彼女が死んだのは、それから三年後のことだった。

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