二・三
一時間半もすると、さすがに僕らも、というか僕が疲れ始めた。なにせ坂の多いこのエリアで炎天下の中歩き回るのだ。いくら育ち盛りと言えど限界がある。なのに栞は一向に疲れていない様子で、僕は自分の肉体年齢が彼女と一歳しか離れていないことが信じられなかった。僕がもう無理だと音を上げると、彼女は遊び足りない子供のような表情を浮かべたが、結局彼女は妥協して近くの寺に休みに行くことになった。
寺の境内は静けさに包まれていた。僕らの他に参拝客はおらず、生い茂る木々の葉が、時折吹く風を受けて涼しそうに揺れていた。僕らは木陰のベンチに腰を降ろし、道中のコンビニで買った棒アイスを二人で分けた。夏のアイスほど美味いものはない。安っぽいソーダの爽やかな香りと氷の冷たさが体中を駆けまわり、火照った体を急速に冷やしてくれる。ただ何をするわけでもなくぼんやりと境内を眺めると、まるで時間が死んでしまったかのような感覚を覚えた。
そんな僕の様子が面白くなかったのだろう。栞はアイスを食べ終えると一人でにどこかへ行ってしまった。どうせ本殿へ手を合わせに行ったのだろうなどと思ってのんびりしていると、彼女はどういうわけか坊さんを連れて戻ってきた。なんでも掃除中だったところをとっ捕まえてきたらしい。まさに好奇心と探究心の権化である。捕まった坊さんにしたら、仕事中にいきなり中学生のメスガキに絡まれて腕を引っ張られた挙句何か面白い話をしろなどと無茶を言われるのだからたまったものではないだろう。そう思った僕が慌てて謝罪をすると、坊さんは愉快そうに笑って許してくれた。それから彼は、親切にも僕らに仏教にまつわる話をしてくれた。
三千大千世界というものがある。三千世界とも呼ばれるそれは、仏教の宇宙観をよく表した言葉だ。まず、この世界の地下には大地を支える三つの輪があり、下から風輪、水輪、金輪——この金輪と水輪が接する境界のことを金輪際と呼ぶ——という。その世界の中心には須弥山という非常に高い山があり、頂上である有頂天には天界の住人が、地下には奈落が存在する。そして須弥山を取り囲むように海や大陸が広がっており、世界には果てが存在する。これが一世界である。この一世界が千個集まったものを小千世界といい、小千世界が千個集まったものを中千世界といい、中千世界が千個集まったものを三千大千世界という。つまり三千世界とは一世界が十億個集まったもののことを指すのである。
なんと途方もないスケールだろう。古代人の想像力には感嘆せざるを得ない。だが真に驚くべきは、この三千大千世界を仏は一人で教化できるということである。つまり一人の仏は十億の世界の人々を善へ導くことができるのだ。さらにこの宇宙はその三千世界が無数に集まって構成されているのだという。ここまでくるとほとんどSFの領域である。我々が普段何気なく拝んでいる仏様というのは、実は相当偉大なお方でいらっしゃるらしかった。
坊さんの話を聞きながら、僕はそんな崇めるべき仏様のことを思った。十億の世界を見るとは、果たしてどのようなものなのだろうか。何を思うのだろうか。面白いのだろうか。あるいは、悲しいのだろうか。無論悟りを開いた仏がそんな人間臭い考えをするはずがないのだが、それでも僕は考えずにはいられなかった。無数の世界を前にして、解脱に辿り着かないままの人間は果たして何を感じるのだろうか。
——まさかそれを、身をもって体感する羽目になるとは思いもよらなかったが。
「こーちゃん、こーちゃん」
「どうした?」
坊さんの興味深い話の後、そろそろ寺を出ようかとした時に、栞は何かを思いついたような表情で僕の顔を覗き込んできた。
「これからもう一ヵ所だけ行かない?」
「まだ行くのか。お前のその体力とガッツはどこから沸いてくるんだ」
腕時計の針は午後三時十五分を打っていた。まだ日中とはいえ流石に僕も疲れていたし、何より昼間中断してきた執筆の続きをしたかった。だから僕は帰りたいオーラをこれでもかと詰め込んだ眼差しを送りつけてやったのだが、彼女は意にも介さないようであった。
「お願い、ホントすぐだから」
「しかし……まあ、場所によりけりだな。で、どこなんだ?」
「それはね、異人館」
ああ、なるほど。
そう思った。
「こーちゃん言ったことないんでしょ。ここまで来たんなら、行ってみたくない?」
確かに、どうせこんな所までえっちらおっちら坂を上がって来たのだ。このまま帰るというのも何だかもったいない。そう思ったから、僕はもう少しだけ坂を上ることにした。
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