第二章 霧の都

第4話 明けない夜

 西経81度57分、南緯79度58分。

 人類未踏を侵され、神秘の失われた極地。


 セドナの住民はその日を境に、皆が皆生きる気力をそがれていく……。


 地球は、やがて回った。


 いつまでも明けない夜。


 極夜、その始まりである。






 暗黒。

 季節は六月、今年も冬がやってきた。

 ただでさえ凍えるような、いや何人か凍えてしまう寒さなのに、これから数か月の間この地には陽光が差し込むことはない。

 天体の運動、地軸の傾斜という小市民にはどうにもできない領域で、第五世界は支配されている。





「……ああ、どうして」


 棺。

 平和の象徴になれと祈られた絶望の墓標に、その人間は立っていた。

 何がしたかったのか。

 いや、何を見ていたのか。

 いや、この暗闇の中、果たして何かが見えていたのか。


 その行動には不可解な点が多くあった。


 ただ――ひとつだけ言えるのは、図らずもその人間はセドナ唯一の光に触れることになる、ということだ。


 ――その門は、あかかった。

 そしてそのあかは、いっそう輝ける環境も備えていた。


 人間の視線の先には、とある赤色の独立峰。

 いや……むしろ自然物であってくれと願ってやまないほどの、巨大な建造物であった。

 底辺400メートル、それを4つ備えた錐体。

 あるはずのないもの。

 あってはいけないもの。

 セドナにその名を知る執行者が現れていれば、間違いなくこう叫んだだろう。

 ギリシャ語の「ピラミス」を語源にもつ、あの呪文――「ピラミッド」、と。


 かつての栄華を知らない現代のセドナの子供たちは、ただの山か丘だと侮っているかもしれない。

 ただ、残念なことに結論として……が、初代「炉」なのだ。



 人間の視線は炉の最底辺、赤色の地獄に向けられている。

 それは円を描きつつ、その内側で紋様や文字を表現する。


 アドラートク。

 ブニック。

 イガラック。

 メッサレラーヴォ。



 それが、炉と接する四辺に与えられた名だった。

 それより内に記述はない。

 炉を侵すわけにはいかないからだ。

 それは、一つの具象式。

 失敗した英雄を呼び込むだけの、無価値な自滅機構。

「地獄の門」。


 深紅は四角錘に反射して、その人間の顔を不気味に照らし出していた。







 暗黒。

 何かがあるのに、という暗黒。


 まともな資源を氷と動物しか得られないセドナでは、照明など期待するだけ無駄というもの。

 足元さえおぼつかない中、それでも何かをしなければ。

 生命は熱のように通りすぎてしまう。


 さて、地上に手掛かりが何もないのなら、人はどこに求めるのか――


「……ふふ、ははは」


 果たしてそれはあったのだ。


 昼も夜もない、数か月続く星空。

 天空の主が姿を見せぬ間も、彼らは決して寂しくなどなかった。



 アクルックス、ミモザ、ガクルックス、そして全天第二位の等級を誇る恒星――カノープス。

 彼女らはセドナの道しるべとなり、決して明るくはないけれど、それでも帰り道だけは正確に教えてくれた。

 月さえもが眠りにつく「極夜の極夜」の中にあっても……変わらなかった。


 そんな経緯もあってか、セドナでは天文が異常発達している。

 その特異な立地ゆえか地球の形状も早期に把握していたし、極めつけはなんといっても閉門局の基地の名前だろう――と、それはまたの機会にしよう。






 極夜に入って半分以上が経過した、とある昼下がり――いや、そろそろ体内時計がズレまくって真夜中かもしれない――草加印南そうかいなみは、お勤め先にお呼ばれをされていた。

 ……の、だが。

 あろうことかこの男、お勤めを渋っていた。


けいはこれから然るべき期間、閉門局最大基地「天文台」に勤務、セドナを護ること』


「……ん、あ」


 どう考えても正気とは思えない幼馴染の言葉がぶり返す。

 自分を殺そうとした犯罪者を独断で部下に招き入れるなんて、アザラシにでも頭を食べられたのかもしれない。


「はあ……だいたい今何時だよ……」


 時間の感覚はクズ箱行き。

 認知学によると……なにかしらの感覚が鈍った状態では、ほかの感覚の足も引っ張ってしまうらしい。

 ようするにブラインド印南いなみである。

 まあ盲目とかそれ以前に、視力を役立てる機会が奪われたわけだが。


「うーん……さすがにそろそろ行かないとやばいかな、俺札付きだし。なあ」


 そんな風に楽観していたことを、果たして彼は恨めたか。


 災厄は低い声を引っ提げてやってきた。

 鍵のかからなくなった扉は抵抗の意思を見せてくれない。


「おらーっ! 時間を守るのは社会人の常識だ!」


「………………、」


(やべ。アイツが起きちゃうかも……)


 わざとらしくたっぷり間をとってから、


「はにゃ?」


 印南はかわいらしく首をかしげてみた。

 大抵の女の子なら大好きであろうペンギンの意匠である。

 どうしてこれでごまかせると思ったのか、今でも不思議でならないらしい。

 仕草までは向こうに見えていないのだし。


「………………十年遅い」


「五才だったらいいんだ⁉ そこら辺妙にリアルなの突っ込みづらいんだけど!」


「まさに今ツッコんでるじゃない」


 口では威勢を張りながらも、印南は恐怖に震えていた。

 玄関に現れているであろう初恋の人、もとい伝説のスナイパー、あるいは同業者、もしくは死神。

 第一に、彼女は自分をどう処理する心づもりなのか。

 第二に、どうして住所がバレているのか。

 これで相手が借金取りならとっくに夜逃げしているところだが、給料と直結している以上そういうわけにもいかなかった。


 その上暗闇で声しか聞こえないので、心臓に悪いことこの上ない。


 そして。


「……っ!」


 ざく、ざく、ざく、ざく。


 胃が干上がり血圧がどんどん下がっていくのを印南は小炉心で感知した。

 手のひらがジワリと湿っていく。

 脳は熱を帯び、体は急速に冷えていく。


 クラミドモナスのように繁茂するシャチで満たされた南極海と対面したような気分であった。


 そのシャチより恐ろしい女は、確実に距離を縮めてきている。

 先に待つ「死」以外のビジョンは、草加印南の世界観には存在しなかった。


 掴んでも掴んでも振り払えない闇がこれほど恐ろしかったのかと、その恐怖は脳髄に刻印された。


 と――ここまで悲観してから、ようやく彼の思考の檻は解き放たれた。


(…………なんであいつ、さっさと俺の前に現れないんだ?)


 第五世界で最速のシラギ、サカリィ・ヤコン。

 彼女の能力をもってすれば、印南の感覚神経が危険を伝えるよりもはやく「天文台」へ拉致できそうなものを。


 なぜ、彼女はそうしない?


(……もしかしてだけど)


 あの黄金の悪魔も同じ条件なのか?


 暗闇は万国の万人へ悪平等だ。

 いくら彼女が得意な力を有する新掃者だからといって――そう軽々と人智を越えてもらっては「地獄の門」が泣く。

 サカリィも印南と同じ、手探りで行動するしかないのだとすれば――!


(……!)


 彼はフェミニストに吊るし上げられるであろう程の残酷な笑みを浮かべた。

 その頬が音もなく裂けていく。


 ざく、ざく、ざく、ざく。

 改めて聞くと、サカリィは必要以上に慎重に進んでいるのだとしか思えなかった。

 そこに勝機は必ずある。


 ……音を聞くのだ。

 ブーツの違い。

 彼我では、必ず彼女の方が足音が大きい。

 たとえ同じ氷の上を歩くのだとしても。


(は――――)


 音もなく後ろへ回り込む。

 この辺りはステゴロスナイパーではなく、純粋な遠距離兵として実力を磨いてきた彼の地力だろう。


 そして印南は……そこで

 


(へへ……)


 やはり犯罪者、もう面構えから違った。

 狂喜に震えそうになる左手を、どうにか必死に押し堪える。


「ほーら、逃げないでね? 一応書類上兄けいは囚人。逆らったら今度こそ真冬の南極海よ」


「…………、」


「え、何? なんか言わないの? ……ちょ、ちょっと! 企んだ時点で許されないからね!」


 そして、サカリィが見当をつけた印南の位置に現れたとき。

 彼はその予想の百八十度反対方向でじっと機をうかがっていた。


 冷点――寒さだけを感じる触覚。

 狙うはその神経が最も集中した場所、すなはち首筋。

 少女の注意が前方に集まり切った瞬間。

 犯罪者は動き出す――――ッ‼





 ひた。





「………………………………………………………………」


「ひゃぁっ、…………ん」


「あれ?」


 その犯罪者が自らの死期を悟るのには五秒を要した。

 倫理を身に着けるのには八十年かかるだろう。




「……あのー。あんだけじっくりやったのに、その反応の薄さはどういうことなんでしょう、姫?」


 訂正しよう。

 五秒では死期どころか、身の程すら把握できなかったらしい。




「………………………………(この男、食肉保存用の氷で人の体を――――!)」



「え、何、この。まるでお前はもういいから、というような理解を求めることさえ諦めたかのような表情……。

 ちょっ、何⁉ お願いだから無言で具象式開かないで、ちょっ、待って、ホントに待って! 勘弁してください、何、何なの⁉ 怖いよおっ‼」




 ちょうど星空の話をした後なので、こんなオチはどうだろうか。


 草加印南は現在南天において、カノープスと呼ばれている。

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