第2話 氷の門
「ごめんね」
それが誰の言葉だったのか、彼はもう覚えていない。
そんな弁明より謝罪より、目下最大の課題があったからだ。
ガチガチ、ガチガチガチ。
彼の心臓は悪寒に震え、一層の拍動を行っていた。
家に帰っても、誰かがいるわけではない。
そこにあるのは死後二十日も経った、シャチの足の肉だけだ。
この寒さは腐敗さえ許さない。
(……もし俺が死んでも)
情けない顔のまま何か月も捨て置かれてしまうのだろうか、と
氷だけで作られた透明な家は、何かとても生命に対する侮辱をしているようだった。
「おはよう」
「こんにちは」
「こんばんは」
彼は自分が孤独だとは思っていなかった。
どこにいても三種類の挨拶だけは聴くことができたし、漁師港のオッサンなんかは、
ただ。ただ、だ。
「おやすみ」
朝と夜が極端すぎるこの極致において。
自分へとそう声をかけてくれた人を、印南は知らなかった。
思えば、それが転落の始まりだったのかもしれない。
「…………」
(消えて、ない?)
氷のささくれに
その現象の正体を、草加印南は知っていた。
彼はどこまでいっても、終始スナイプに留まる臆病な人間である。
「――――!」
900メートル先の地平。
壁面上ではない。
肉眼の分解能が機能しないほどの遠方に、黒い人影が屹立していた。
そう。
彼が捕捉できるということは、あの執行者は、棺を透過して出てきたのだ――!
「最低でも透過Lv.P以上……なんですか今日は、ボーナスステージですか⁉️」
『警告。閉門局未登録執行者による回線への逆探知を確認。侵入まで五秒……侵入を確認。通信が維持されます』
(は?)
初めて聞くアナウンスに、思わず眉をしかめる印南。
次に耳に入ったのは、きわめて軽快な声だった。
『はいはい、窓口変わりましてこちら「地獄の門」よりお送りします!』
「……執行者の声は初めて聴くな。何の真似?」
『いやいや、特に意味はないって。ただ、まあね。
「……? 決めてるって、何を……?」
『ふふ、うふふふふふふ』
ここで初めて、印南は恐怖ではなく、通信の向こうの女へ嫌悪を抱いた。
『ここのところ失敗ばかりだったからさあ。
ズズズズズ……と。
その不快な音により、彼の注意は現実へ戻ってきた。
「……クソ!」
それは水の流れる音。
「炉」からの導線も通っていないこの地面が、今まさに融解している――!
「あぶね……」
グチョグチョの足元から体を引き抜き、瞬時に五歩ほど後ずさる。
氷点下20度。
極地に水など存在しない。
ここは氷の砂漠であるはずだ。
『ん? これを
「やかましい。妖怪溶解野郎」
「野郎じゃないですぅー」
瞬く間に、先程まで彼がいた地点は元の氷に戻っていった。
いや、むしろツヤとハリとうるおいが増しているようにも見える。
あのまま居座っていれば、彼とて脱出はできなくなっていただろう。
『これが
圧力も温度も変えずに、ただ固体を液体として振舞わせるだけ。それでもこの大陸には氷のない場所なんてないんだから、相性は最高じゃないかな♪』
「相性は分かんないけど、愛称はさっきので決定な?」
『出たよ謎のこだわり』
「君はじめましてだよね⁉️」
煽ろうとしたところが煽り返されてしまった。
ともあれ、敵が視えているなら先程よりスナイプは易しい。
右手首に左手を
『ジッジッ……エラー』
愛しかったアナウンスもあの女の犠牲になってしまった。
おのれ許せん!
「
(多少逸れても問題はない。ヤツの進路を制限してやる!!)
その光条は――――
――――あまりにも長い、弓を持たない矢。
、だった。
『……で、何がしたいわけ?』
今度こそ。
内からではなく外から迫りくる悪寒に、印南は身震いした。
「…………、」
そこにあったのは、ただのありふれた氷だった。
セドナにいればどこでも見られる、日常の象徴。
けれどサイズが違う。2メートルはあろう奥行きを持ち、どう考えたって印南の透過力では
日常が会心の一撃を瓦解させた。
「氷を解かすだけじゃなく、その水を操作する……、」
それがあの女の能力か、と彼は息を呑んだ。
広大に広がる大地の全てを、
槍として、
盾として、
鎖として使役する。
この地にいる限り、彼女は絶対的に君臨し続けるだろう。
「
できるだけ
你を殺したら、次はアレだ、アレ! 炉……とかって、
(…………ッ⁉)
あまりに恐ろしい発想に、印南は人間の悪意の限界を見、そして喉を干上がらせた。
さらに。
「あっ」
ピシピシ、と。
呆気にとられる印南の足元を、彼女の氷が埋め尽くしたのだ。
今度はそこへと赤の円陣が浮かび、さながらクラミドモナスの様相を呈している。
あの執行者が保有する具象式だ。
「…………これで出現間もないってのかよ」
吠えてみても、今の彼に盾を突破する手札はない。
鎖から逃れる手段でさえ、同じく。
(万事休すか)
この期に及んで、彼を最も強く縛り付けていたものは――恐怖、だった。
罪人である自分は、誰からも
そんな宗教的なものよりも、もっと原始的な。
ただ、死ぬのが怖いだけだ。
「……せめてもう一発」
弾倉に式を装填する。
再び
その全てが無駄だと理解していながら。
(……なんだ、走馬灯って、割とポカポカしてるのか)
本当に久しぶりに、彼はわらっていた。
――――だが。
現実は遅れてやってきた。
『――――⁉️
それが最後の言葉となった。
「…………は?」
それは、まるで天体の速度だった。
その一撃は、確実に執行者を粉砕した。
だが。
「…………どういう、ことだ?」
その少女は、棺の前を踏みしめていた。
超長距離スナイプの直後にもかかわらず、標的が立っていたのとまったく同じ地点を。
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