メモセピア
雨間 京_あまい けい
光明編
第一章 クラミドモナス
第1話 新掃者
西暦1440年、南極。
(横風が強い、照準を3クリック右に修正……)
足元は紅い。
すごく例の体液を連想してしまって鳥肌が立つが、クラミドモナスが繁茂する時期なのだから仕方ない。
スナイプにはこれぐらいの高低差は必須だろう。
しかしここから標的の方向を眺めても、いや凝視したとしても、あの黒い壁以外には何もない。
何もない、というのは取り立てて説明することは何もない、ということだ。
圧縮され気泡の抜けた青い氷も、雲一つない空も、彼にとっては親の南極より見た南極である。
すい、と。
具現式の
『ラジオトレーサーへの接続を確認。ユーザー……検出できず。用途……検出できず。エラー。通信を切断します』
一発で、確実に。
今なら仕留められる。
「ははっ――――あああぁぁぁあああ‼️」
これまでにないほど全速で、紫紺の式が疾走する。
対する人類の敵――執行者に知覚できたのは、その輝きで手一杯。
「バカな、なぜ当ててくる⁉️ 銃弾はともかく、視覚の射線は切っているのに――!」
「棺」の向こう側に潜伏する執行者に対して、草加印南は視線を貫くことはできない。必ず棺に阻まれる。
ただし……
「見えなくても問題はない。その傷だ、何百メートルも移動はできない。
なら……初撃で逃げ道をふさぎ、それ以降をすべて当てればいいんだ」
逃げ惑う執行者に対し、草加印南は動かない。
本当に、ピクリとも動かなかった。
寒さに凍えた人形か
「……っ……⁉️」
瞬間。
執行者の最後の抵抗か、それとも手段に至らないただの殺気か。
形容しがたい悪寒に襲われるのを、彼は感じた。
『……エラー。未登録の新掃者です。ラジオトレーサー、通信を切断します』
槍、のように見えただろうか。
その一撃は、棺を
高位の新掃者にとって
現実とは干渉せずに、ただ着弾点だけを傷つける。
黄色い閃光が迸る。
ッッッスッドンッ!! と、轟音が遅れて到達した。
手のひらは熱を発し、けれどこの氷の砂漠では安直な白煙など立ちはしない。
「――――っ――――⁉️」
その執行者が次に
彼女は自身の絶命を理解していた。
「――――!」
執行者。人類の敵。
そんな名前のついた人型の炎が、一撃のもとに消滅した印であった。
完全なる背後、死角に潜む刺客。
振りむくまでもなく、命を絶った。
また一人、顔の知らない相手を。
「……、おい。そろそろ出てきたらどうなんだ、伝説のスナイパーとやら」
端的に言うと、印南は法を犯していた。
グレーとかではなく、十六歳にあるまじきブラックだ。
『セドナ閉門局、セドナ伏式門、ならびにそれに準ずる組織に所属しない新掃者は、「
しかも重めのやつだ。この歳でこのレベルの前科が付いた日には、もう親に顔向けできないな、と印南は思った。まあ親の顔なんて知らないのだけれど。
それでも印南が
彼の領域で、本来ソイツが倒すはずだった執行者を葬れば、必ず現れるはずだと。理屈ではなく、スナイパーとして印南はそう踏んでいた。
いよいよ寒くなってきた。
「炉」からの「導線」で暖房を行っているとはいえ、極地とは深入りと死の間に2本の横棒が入ってしまうような世界だ。今日はここまでにしておいた方が賢いだろう。
氷の大地、水の骨も、悲しいほどに無機質に感じてしまった。
(……やべえ、冷や汗がすごいことになってる。明日朝起きたら公務員のオジサンに顔を覗き込まれるとか、そんな社会的なホラーが起こりそうな気がしてくる)
いつもは頼もしいはずの
極限の緊張は根源的な恐怖の一つ。
寒さか、恐れか、狙撃の疲れか。
震える手で地面を押し、草加印南は立ち上がった。
「……ん、」
頭上には緑のカーテンが帯さながらに広がる。
「オーロラ爆発」という、一瞬の神秘。激しい光を以て空いっぱい踊りだす現象だ。
その波はひどく機敏で簡捷で、いっそ太陽にとって代わってくれと思うほど。
「……ひどくアンマッチだな、これ」
そうして、独りで暮らす家へ向けて数歩を踏みしめたころ――ふと、気づく。
(あんなところに影、なんて、なかったよな?)
初代「炉」を取り囲む壁、「棺」。材質は氷。ただし南極産なので気泡を含みにくく、蒼く仕上がっている。その体積にゾッとするが、まともな資源が動物と氷しかないのでは仕方がない。
まあそれは脇道にハケといて。
(……やっぱりだ)
いま、具現化したスコープは覗いていない。
光学の補正を受けない印南は、「棺」に鳥が止まったとしても識別することはできない。せいぜいが黒い点として網膜に処理されるだけだ。
……そう。
本来あるはずのない人型の影が示すのは――「執行者」を防ぐ壁である棺の上に、このセドナで最も危険である地点へと――何者かが降り立っているということ――⁉️
「チッ、聞いてねーよ! すり抜けるならまだしも、力業で棺を突破する執行者なんて……!」
右腕は砲身。手のひらは砲口。狙撃「式」。
紫に点灯しながら、まるで惑星と衛星のように、砲身の周りを回転する。
あえてスコープを消した状態で取り出した。
――――一瞬。
互いの存在に気付くかさえ怪しい距離の間で、確かに。
草加印南は、標的と視線が交錯したのを知っていた。
「……?」
異変を感じたのは直後だった。
弾丸が放たれる直前のこと。
草加印南は一流のスナイパーである。
よって、獲物から目を逸らすなど刹那の時間もあってはならない。
そう、その、はずだった。
「てことは、何だ、お前、瞬間移動でもしたってのか?}
棺の上の人影は……、
認識が途絶するほど自然に、そして唐突に。
あるいはオーロラの終わりのように、跡形もなくなっていた。
(…………ふ、)
妙な確信が彼を包んだ。
それは、きっと――
ああ、ああ、セドナは寒い、南極は寒い。
寒い、寒い、寒すぎる。
だから、彼にはこれしかなかった。
心臓が跳ね喜ぶ、そんな窮地にしかぬくもりを感じられなかった。
「あはははは、あはははははァ‼️」
「式」で定める標的を、狩りの「獲物」だと評価する少年。
その破顔はまさしく、獰猛な獣のそれであった。
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