第32話
朝から食事が喉を通らず、こんなに緊張したのは生まれて初めてかもしれない。一体どんな結果が待ち受けているのか、足を踏み出すたびにどんどん胸の音が大きく鳴っているような気がした。
「緊張しているのですか?」
「……そりゃあ、するわよ」
「…着きますよ……あれ、いつにも増して人だかりが出来てますね」
テストが張り出されているメイン広場には、伊乃の言う通り人がごった返していた。
通常であれば皆一目見ればさっさと立ち去ってしまうため、こんな風に賑わう事は殆どない。
「……え?」
大きな文字で張り出されたテスト結果を見て、驚きのあまり無意識に声を溢れ落としていた。蘭子だけではなくて、その場にいる全員が戸惑ったような表情を浮かべている。
「これ、どういうことですの?」
「え……何ですの、これ」
「何かのミスじゃ……」
周囲の言葉は、まるで蘭子の心情を代弁しているようだった。
信じられない思いで、ジッとテスト結果を凝視してしまう。
「1位が筒井さんじゃないなんて……」
万年2位というレッテルを張られていた央咲蘭子の脱却。しかしそれは繰上げではなく、一つ順位を落としたものだった。
その代わり、かつての蘭子の位置にランクインしたのは筒井律。そして一位は転校生である佐藤ひなだったのだ。
都立高校から特待生枠での転校生なため、頭が良いことは共通認識ではあったが、まさかここまでとは皆思っていなかったのだろう。
一度たりとも譲らなかった女王の失墜に、言葉を失っている者も少なくなかった。
「……筒井さん」
酷くか細い女子生徒の声に、皆の視線が一つに集中する。蘭子も慌てて振り返れば、そこには信じられないように目を見開く律の姿があった。
「律…」
名前を呼べば、一瞬だけ視線が交わる。
しかしバツが悪そうに顔を背けてから、さっさとその場から去ってしまった。
一体何と声を掛ければ良いのだろうか。
考えがちっとも纏まらないまま、とにかく足を動かす。
角を曲がって人通りがまばらになった所で、勇気を出して彼女の腕を掴んでいた。
「待って、律!」
精一杯振り絞った勇気は、いとも簡単に振り解かれてしまう。
こんな風に遠ざけられたのは初めてで、狼狽えながら彼女を見つめていた。
「……ごめん、そっとしておいて」
「でも…」
「1人になりたいの」
かつて何度も目にしてきた、氷のように凍てついた律の顔。そこに感情は浮かんでおらず、人を寄せ付けないオーラを纏っていた。
長年1位を狙い続けて、2位をキープしてきたからこそ彼女の気持ちが分かるような気がする。
10年近く積み上げてきたものを壊されたように、恐らく彼女のプライドを大きく傷つけてしまったのだ。
そして何よりも、あの約束を果たせないことに深い絶望感を抱いてしまっているのだろう。
教室内に足を踏み入れれば、皆の話題は当然のように期末テストの結果についてだ。冷やかす者もいれば、面白がる者。
さまざまなリアクションを浮かべているが、彼女たちの想いの根源は好奇心で間違い無いだろう。
先に戻って来ていると思ったが、教室内に律の姿はない。
「蘭子ちゃん、ちょっと良い……?」
「けど……」
あと数分もすればホームルームが始まってしまうというのに、首を縦に振っていた。
真面目な優等生だと教師陣から評判の良い蘭子が、授業をサボる選択を取ったのだ。
連れてこられたのは以前何度か3人で食事をしたことがある屋上だった。
「ごめんなさい、蘭子ちゃん…」
向き合うのと同時に、ひなはポロポロと涙を流し始めてしまう。
苦しげにしゃくりを上げながら泣く姿に、慌ててハンカチを差し出していた。
「どうしたの、ひな」
「私のせいで……っ、あともうちょっとで上手くいくはずだったのに」
「……もしかして、ひなは知ってたの?」
シンプルな問いかけに、賢い彼女は全てを理解したようだ。恐る恐る頷いてから、蘭子の知らない事実を吐露し始める。
「ずっと相談されてたの…どうしたら好きになってもらえるか、付き合えるかって……やっとここまで来て、あとは律ちゃんが1位を取って上手く収まるはずだったのに……」
「私が台無しにしてしまった」と言いながら、涙を流す彼女を抱きしめる。
背中に腕を回して、トントンとあやすように叩いていた。
この子は本当に優しい。それが彼女の魅力であるけれど、どうか責任を感じないで欲しい。
これは全てひなが頑張った結果なのだから、負い目を感じて欲しくなかった。
首を横に振ってから、グッと覚悟を決める。
「ひなは何も悪くない。一生懸命勉強したんだから、自信持って」
「蘭子ちゃん……」
「……テストの結果なんてもう関係ないから」
ここまで膨れ上がった思いを、無視することなんて出来なかった。少しずつ育まれたこの想いを、いい加減受け入れてあげないといけない時がきた。
「……ありがとう、ひな。おかげでちゃんと自分の気持ちに素直になれそう……想いを打ち明ける機会を作ってくれてありがとね」
きっとあのまま律が1位を取れば、蘭子は自分の思いを打ち明けられないまま流されるように付き合っていたかもしれない。
そうではなくて、きちんと自分の気持ちは彼女と同じであることを。
対等な思いで恋愛をしていきたいと、伝えなければいけなかったのだ。
「え、えぇ…蘭子ちゃんまさか……!」
「……律にばっかり押されるのも癪だから」
本当は蘭子が我慢できないだけだ。
膨れ過ぎて溢れ落としてしまいそうな感情を、これ以上抑え込めない。
ようやく、胸を張って言えるような気がした。
ずっと不安だったのだ。
彼女の想いに蘭子が答えられるのか。
彼女のことを女性として愛せるのか、不安な気持ちもあったけれどあのテスト結果を見た時しっかりと分かった。
甘くて、時折ツンと酸っぱくて。
可愛らしいピンク色がぴったりなこの想いは、間違いなく筒井律に対する恋心だ。
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