第24話


 ふんわりと漂ってくるデミグラスソースの香りと共に、彼女の温かみが伝わってくる。いまだにグラグラと揺れている心情の中、絶対に蘭子から離れない彼女の存在は酷く心強いのだ。


 「おかえりなさいませ、蘭子様。お夕食の支度が出来ておりますが先に召し上がられますか?」


 コクリと首を縦に振れば、机の上にあっという間に料理が並べられる。

 健康のためにサラダを頬張れば、憂鬱な思いが更に加速していくような気がした。


 なるべくあの子を思い出さないように、必死に意識を逸らす。

 あの後、律はどうしたのだろう。一人で部屋に戻って、どんな気持ちで今過ごしているのだろうか。


 好きな相手がお見合いを受けるだなんて、平常心でいられるはずがないだろうに。


 「お食事中に申し訳ございません。奥様からお電話です」


 すぐにフォークを置いて、伊乃からスマートフォンを受け取る。口に含んでいた分を飲み込んでから、一息吐いてから返事をした。


 仕事が忙しいため、母親が蘭子に電話をしてくるのは稀なのだ。

 自然と口角は緩んで、何の用だろうかと胸を弾ませてしまう。


 「もしもし、お母様?」

 『蘭子?今週末になったから開けておいてね』

 「え……もしかしてどこかでお夕食でも…」

 『そうじゃなくて、お見合い』


 頬が引き攣って、自分でも表情を曇らせている自信があった。


 仕事が忙しい故に、彼女たちが蘭子に構ってくれることなんて殆どないというのに。何を期待して、勝手に浮かれているのだろうか。


 『お店は向こう方がセッティングしてくれてるから。伊乃にめいいっぱい可愛くしてもらうのよ』

 「はい……」


 プツリと通話が切れて、そっとスマートフォンを伊乃に手渡す。

 電話をする前とは明らかに表情の暗い蘭子を見て、優しい付き人はまた心配そうに言葉を掛けてくれるのだ。


 「蘭子様」

 「なに……」

 「一度ご自分の気持ちを整理した方がよろしいのでは」


 蘭子のすぐそばで仕えている彼女は、一体どこまで気づいているのだろう。


 律のことを、蘭子の気持ちを。

 達観している彼女は、側から見て主人の変化をどのように受け止めているのか。


 目線を彷徨わせながら、また蘭子は強がる言葉を吐いていた。


 「何言ってるの」

 「……筒井様とのこと、あやふやにしたままでよろしいのですか」


 先ほど、図書室での出来事を思い出してギュッと胸を締め付けられる。


 咄嗟に思い浮かんだ彼女は笑っていた。好きだと囁いてくれた時の、酷く愛おしそうにこちらを見つめる律の顔。

 優しげにこちらを見つめる律の姿が、焼き付いて離れないのだ。

 

 しかし、いまさらお見合いを断ることも出来るはずない。

 両親はきっと蘭子に期待している。

 女の蘭子にはそれくらいしか利用価値がないから、せめてもの役に立ちたいという思いもあった。


 「………良いの」


 苦しげに吐き出された言葉は、酷く小さくて殆ど音になっていない。聞こえたかも分からないくらいの声量だというのに、伊乃は全てを察したように蘭子の想いを尊重してくれる。

 

 それをありがたく思いつつ、キツく叱りつけて背中を押して欲しいと思ってしまったのだ。





 目の前に出されたクランベリーとピスタチオのムースを食べながら、他人から好かれる愛想笑いを浮かべていた。


 自分がどんな風に笑えば、周りが喜ぶかよく分かっている。男性から可愛いと思われる仕草や、一番可愛く見える角度。


 相手に媚びるような態度を取るたびに心が擦り減っていくと分かりきっているというのに、両親の顔を立てようと取り繕ってしまうのだ。


 「凄いですね、知らなかったです」

 

 目の前の男の人の話を右から左へ聞き流しながら、この時間が1秒でも早く終わることを願っていた。


 きっと世間一般的に見たら酷く格好いいだろうに、何も興味が持てず、話していても楽しくないのだ。


 どうしてせっかくの休日に、可愛くおめかしをして好きでもない相手に媚びなければいけないのだろう。


 そうすればお見合いが上手くいって、両親が喜ぶと期待しているのだろうか。

 

 「……本当に、楽しいです」


 心から思ったものではない笑い方に、相手の男性は満足そうに喜んでいる。


 結局蘭子はお見合いを受けてしまった。

 自分の意思なのか、両親の願いを叶えたいからなのか。


 それとも必死に何かから逃れようと、自ら選択肢を無くそうとしているのかは分からない。


 「……でも嬉しいです、以前パーティーでお見かけした時も、可愛らしい方だと思っていたので…」

 「ありがとうございます」

 

 可愛いと言われても、心は動かずにちっともときめかない。


 キャラメル味のマカロンを頬張りながら、何のためにオシャレをしているのだろうと心は冷え切っていくのだ。


 「良かったらまた今度、どこかへ出掛けませんか?蘭子さんさえ良ければ…」


 この当たり障りない対応を、彼は好意的に受け止めてくれたらしい。薄っぺらく中身もない、自分の意思なんて皆無な全肯定な女。


 凄いです、流石ですと相手を立てるだけの女と一緒にいて、彼は本当に楽しかったのだろうか。


 蘭子は素を出していない。

 自分の意見を一つも主張せず、黙って話を聞いてニコニコしているだけのロボット。

 偽りの自分を褒められて、好印象を抱くはずもなかった。


 もし彼が本当の央咲蘭子を知ればどう思うのだろう。

 負けず嫌いで一位になることに固執して、意外と頑固で目標達成のためであれば血の滲む努力だっていとわない。


 周囲を頼るのが下手な、か弱い女の子とは真逆な性格だと知れば、きっと違う印象を抱くのだろう。


 「……ッ」


 ニコニコと全肯定をするような従順な女ではなくて、気が強く自分の意思をしっかりと持つのが央咲蘭子だ。


 全てを知った上で、あんなにもあの子は熱い告白をしてくれた。

 不器用なところも、か弱さとは真逆な性格も。


 本当の央咲蘭子を知っても、好きだと言ってくれたのは筒井律だけだったのだ。

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