第20話
目覚ましのアラームが鳴るよりも、伊乃に起こしてもらうよりも1時間も前に瞼が自然と開いてしまう。
昨夜ちっとも寝付けなかったため睡眠時間はかなり少ないだろうに、不思議と眠くはなかった。
時間を有効活用しようと勉強机に向かって参考書を解いてみるが、ちっとも集中できない。
やはり心のどこかでお見合いが引っかかっていて、ろくに眠れなかったのもそのせいだろう。
「はあ……」
会ったとしても、きっと結婚するのは蘭子が大学を卒業してからだろう。
およそ6年後の婚約相手を今の時期から見極めようとするのは、なるべく早い段階でふさわしい人に出会って欲しいという、母親なりの気遣いだ。
この学園にいたら母親が望むような恋愛はできない。
異性と恋愛をするのが普通と思っている世の中において、おそらく姫昌学園は箱庭のように感じられるのだろう。
「はあ……」
椅子から立ち上がって、ドレッサーの前に移動する。鏡を覗き込んでから、ジッと自分の顔を見つめていた。
最近、化粧をするのが以前にまして楽しかった。
どうやったらもっと可愛くなれるかと研究するだけでワクワクして、新たな発見があるたびに胸を踊らせていたのだ。
可愛くなった姿を、一体誰に見てもらいたいかったのだろう。
「….ッ」
そこまで考えて、思考を放棄する。
僅かにでも浮かんだあの子の顔に、蘭子自身が一番戸惑っているのだ。
可愛くなりたいと強く思うのは、間違いなく蘭子の心の中で何か変化があったからだろう。
いつもより少し早い時間に教室へと迎えば、そこには既に彼女の姿があった。
本の世界に入り込んでいた律は、こちらの存在に気づいてパッと花が咲いたかのように頬を綻ばせている。
「おはよう」
淡い桃色の栞は文庫本の最後の方に差し込まれている。もしかしたら夜遅くまで本を読んでいたせいで、いつもより瞼がとろんと眠たげなのだろうか。
眠たいけれど物語の続きが気になって仕方がないのかもしれない。
そんな彼女をジッと見入っていれば、不思議そうに律が小首を傾げてみせる。
「……何かあった?」
「え……」
「元気ないから」
彼女の瞳に映る蘭子は、たしかにどこか引き攣った笑みを浮かべていた。自分の感情くらい抑え込めるつもりでいたけれど、全然そんな事はないのだろうか。
お見合いが嫌なのか、憂鬱なのか。
もし嫌なのだとしたら、どうして嫌だと思うのか。
ぐるぐると自分の中でさまざまな感情が駆け巡って、次第に気分が悪くなり始める。
「……何でも、ない」
正直に彼女に打ち明ける必要なんてどこにもない。
付き合っているわけでも、想いを馳せているわけでもない相手に、お見合いをしてくることなんて言う必要もないだろう。
その理論は何も間違っていないというのに、先ほどからずっと胸がジクジクと嫌な痛みをあげるのだ。
ダージリンティーにお砂糖をふんだんに入れて、ティースプーンでゆっくりとかき混ぜる。
ミルクを注ごうか悩みながら、すぐ目の前にあるカヌレに手を伸ばしていた。
せっかくの休日に仲の良い友人であるリリ奈とお茶をしているにも関わらず、ちっともリラックス出来ない。
彼女との会話はひどく楽しいというのに、他のことが脳裏を支配しているせいだろう。
こちらの変化にも気づいている様子で、気を遣わせている自覚もあった。
「……子、ねえ蘭子聞いてるの?」
すっかり上の空になっていたことを後悔する。貴重な休日にお茶をしている相手に対して、酷く失礼な態度を取ってしまった。
どうやら先ほどから何度も名前を呼んでいた様子で、心配そうに見つめられている。
「ごめん、なに?」
「だから、この後どこ行こうって話してたのに…」
大切な友人にこんな表情を浮かべさせてしまったのだ。寂しさと心配を滲ませる彼女を安心させるように微笑むが、リリ奈の顔色が晴れる事はなかった。
「本当にごめん…」
「いいけどさあ……あ、筒井さん?」
「え!?」
驚いてバッと振り返れば、そこには誰もいなかった。私服姿のあの子の姿はなくて、すぐに騙されたのだと気づく。
「なんで嘘つくの」
「いや……何かあったとしたら筒井さん関係かと思って」
「……違うよ」
律は何も関係ない。
付き合ってもいない彼女に、蘭子がお見合いを受けると報告する義理もない。
そうやって必死に心に言い聞かせているが、胸がチクチクして、何をするにも手がつかないのだ。
「いま、嬉しそうな顔してたよ」
「……ッ」
「筒井さんに会えるかもって思ったら…そんなに嬉しそうな顔するんだね」
淡々と述べられる言葉に、気恥ずかしさを覚えてしまう。
冷やかしているわけではなく、リリ奈はありのままの事実を並べているだけだ。
「目がキラキラして、嬉しそうな声あげちゃってさあ」
「そんなことない……」
声が酷く小さくなってしまうのは、完全に否定することが出来ないからだ。
恥じらいから逃れるように、目線を手元へ移す。
綺麗に手入れされた爪を眺めながら、頬の赤みが引くのをジッと待っていた。
「……あんまり強がりすぎちゃダメだよ」
コクリと首を縦に振ってから、ふんだんに砂糖があしらわれたアイシングクッキーを手に取る。
蘭子だって分かっているのだ。
これまで筒井律は絶対に倒したいライバルであり、蘭子にとっては敵のような存在だった。
しかし最近はまた別の何かに変わろうとしていると、自分でも心情の変化を感じていた。
甘ったるいクッキーを頬張りながら、それを美味しいと思うことが上手く出来ないのだ。
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