第10話


 初めて知った人の唇の感触。

 耳たぶや二の腕のようにふわりと柔らかく、あちらの吐息が唇に当たれば言いようもなくドキドキと胸が高鳴った。


 16年間守ってきた蘭子のファーストキスは、長年ライバル視してきた筒井律にあっさりと奪われてしまったのだ。


 中々帰らない律を追い出して、ようやく自分だけの空間を取り戻す。


 お気に入りの人形をギュッと抱えながら、自分の唇にそっと手を這わせる。


 「あの子が私を好き……?」


 今までそんな素振りを一度だって見せたことがないくせに、突然の告白を信じられるはずがなかった。

 未だにあれが夢か現実かあやふやだけど、唇に触れた柔らかい感触は鮮明に覚えている。


 彼女は確かに蘭子が好きだと口にして、こちらの唇をあっさり奪っていったのだ。


 「……ッ」


 思い出すだけで恥ずかしくて、顔を真っ赤に染め上げる。何の許可もなくキスをするなんて信じられない。


 筒井律がどうたったかは知らないが、蘭子は初めてだったのだ。

 顔色をちっとも変えずに慣れた様子の彼女からすれば大したことないのかもしれないが、ファーストキスを奪われたこちらはたまったものじゃない。


 普通は付き合った相手としかキスをしてはいけないのだ。恥ずかしさのあまり、ジワジワと涙まで込み上げてくる。


 嫌悪感よりも戸惑いと恥じらいの方が大きいだなんて、勉強のし過ぎで頭がおかしくなってしまったのだろうか。






 朝の爽やかな日差しとは裏腹に、蘭子の足取りは酷く重苦しい。決して学校に行くことが憂鬱なのではなくて、筒井律と顔を見合わせるのがどこか気恥ずかしいのだ。


 唇を重ねた手前、どんな態度で律と接すれば良いかわからない。


 「あ……」


 手入れの行き届いたロングヘアの彼女を見かけて、咄嗟に顔を合わせないように遠回りをしてしまう。


 足早で彼女から遠ざかりながら、何を意識しているのだろうとふと我に帰る。


 「……馬鹿みたい」


 そっと振り返って、彼女を撒いたことを確認する。

 ふと頬に手を添えれば、じんわりと熱くなっていた。きっと鏡を見れば、間違いなく桃色に染まっているのだろう。


 「何意識してるんだろう…」


 頬を火照らせて、顔を見合わせないように遠回りをして。

 本当に馬鹿みたいだと思うけど、気づけば避けてしまっていたのだ。


 別に告白をされたのは初めてではない。父親に連れていかれた社交の場で、それなりに容姿や人柄の良い御曹司にアプローチを受けたことだってあるのだ。


 しかしどうしてか胸がときめかず、交際を受け入れたことは一度だってなかった。


 どれだけ愛の言葉を囁かれても恥ずかしくも何ともなかったというのに、どうして今回はこんなに頬が赤らむのか分からないのだ。






 まるで恋する乙女のように、筒井律の姿を見かけると反射的に逃げてしまう。顔を見合わせると顔を赤らめてしまうなんて、一体どうしてしまったのだろう。


 意識していないと必死に心の中で言い訳をしても、側からみれば言い訳のようにしか聞こえないのだろうか。


 ファーストキスを奪った相手というのは、こんなにも胸を支配してしまうらしい。


 夕暮れに照らされながら、今なら頬が赤らんでも日差しのせいに出来ると考える。日直として、放課後遅くまで残って日誌を書いていたのだ。


 ついでだからと頼まれていた書類のホッチキス留めを終えて、ようやく一息を吐く。


 帰ろうとカバンを肩に掛けた所で、落ち着いた声色で名前を呼ばれた。


 「央咲さん」


 ここ最近、蘭子の心を支配している彼女。許可もなく唇を奪った挙句、律のせいで勉強も集中出来ないのだ。


 反射的に顔を背けようとすれば、二の腕を強い力で掴まれて肩を跳ねさせる。


 「な、なに」

 「どうして避けるの」

 「当たり前でしょ!あんな突然キ、キスするとか……」


 頑なに目を合わせようとしない蘭子に痺れを切らしたのか、もう片方の手を顎に添えられて、強制的に彼女の方へ向かせられる。


 グイッと顔を近づけられて、あまりの近さに驚きから目をギュッと瞑っていた。


 「へえ」


 揶揄うようで、意外さを滲んだ声色。

 恐る恐る目を開けば、酷く近いところにあった彼女の顔が離れていく。


 ぼやけていた輪郭のピントが合って、ニヤニヤと嬉しそうに笑う表情が良く見えた。


 まるでこちらの気持ちなんてお見通しのように。


 「跳ね除けないんだ」

 「……ッ」

 「顔真っ赤にして、目瞑っちゃって…嫌じゃなかったの?」


 身長差があるとはいえ、同性なのだから本気になれば跳ね除けることは出来ただろう。

 にも関わらず、蘭子はそうしなかった。


 受け入れるかのように瞼を閉じて、彼女の出方を伺っていたのだ。


 指摘されて初めて気付いた事実に、羞恥心から頬が更に赤らんでいく。

 これ以上恥じらう姿なんて見られたくないというのに、掴まれた腕を離してくれる気配はなかった。


 「離してよ……」

 「玉砕覚悟だったから安心した」


 頬に手を添えられて、唇を親指でなぞられる。

 ふにふにとした感触を楽しむように、親指の腹が蘭子の唇を軽く押しつぶしてくるのだ。


 「……央咲さんの中で、私を好きになる可能性って1%はありそうだね」


 添えられていた手が蘭子の目元を覆ったため、視界が真っ暗になる。

 柔らかい感触が一瞬額に触れて、同時にシトラスの良い香りがした。


 視界を奪われても、何をされたか理解出来てしまう。

 掴まれていた腕を離されて、ようやく解放されても彼女から逃れる気にはなれなかった。


 「じゃあね」


 ゆっくりとした足音が離れて、ピシャリと扉が閉まったのと同時にその場にしゃがみ込む。


 「……また、キスされた」


 今度は唇ではなく額だというのに、やはり心臓は煩く高鳴っていた。


 同性の筒井律にドキドキするなんて、世間的に見ればイレギュラーなことだと分かっているのに、不思議と受け入れている自分がいる。


 額にそっと指を這わしながら、先程の彼女の感触を思い出してしまうのだ。

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