第9話
お気に入りのベルガモットの香りがする室内。ゆっくりと瞼を開けば、見慣れた天井がそこには広がっていた。
「あれ……」
枕カバーやベッドシーツも全て見覚えがあるもので、ここが自分の部屋であることを瞬時に理解する。
「起きた?」
すぐそばから聞こえてきた声に、驚いて視線を寄越す。本来であれば絶対にいるはずのない、氷の女王こと筒井律が自分の部屋にいるのだから戸惑って当然だ。
「なんで…」
「倒れた央咲さんを運んだの私だから」
「そっか………りがとう」
「声小さすぎ」
クスリと笑う姿は、新鮮で酷く可愛らしい。
だけどこんな風に彼女が変わったのは全て佐藤ひなのおかげで、蘭子が特別だからではないのだ。
この子はあの転校生をどう思っているのだろうかと、気になってしまう。答えは分かりきっているというのに、確信的な言葉が欲しくなってしまったのだ。
「筒井さんって転校生のこと好きなの」
「は?」
「あんなに笑う筒井さん、初めて見た」
すぐに二つ返事が返ってくると思ったのに、彼女は真顔で首を横に振っていた。
「違うよ」
「じゃあ何で仲良いの」
「話が合うから。一緒にいて心地良いの」
「それは好きってことじゃないの?」
「そうじゃない」
言ってる意味が分からず首を傾げれば、律がふわりと微笑んで見せる。
軽く屈んでから、蘭子と同じ目線になって話してくれた。
「他に好きな子はいるけどね」
「え…!?許嫁とかいるの?」
「違うよ、この学園の子」
この学園内となれば、当然相手は同性だろう。
一体相手は誰なのか、考えようにも人との交流が少ない彼女の想い人が分かるはずもない。
「引いた?」
「引かないよ。ただ、びっくりして…けど人を好きになる気持ちを引くとかは絶対にない」
蘭子の言葉にホッとしたように、律が笑みを浮かべる。ひなに見せるものとはまた違う、甘さを含んだ優しい笑みだ。
「やっぱり央咲さんは優しいね」
そんな風に言われても、戸惑ってしまう。10年近く一方的にライバル視していたせいで、今更友達のように振る舞うのがどこか気恥ずかしいのだ。
「……どうしてそんなに頑張るの?付き人の人から夜遅くまで勉強してるって聞いたよ」
「筒井さんに勝ちたいから」
「私に?」
「越えたいの」
「……央咲さんって嫌なことが待ってるのと、ご褒美が待ってるの。どっちがやる気が出るタイプ?」
唐突な質問に、戸惑いながらもぽつりぽつりと答えていく。
「え…嫌なことの方がやる気出るかな。絶対回避したいって思うし」
「じゃあこうしよう」
スプリングが軋む音と共に、彼女がベッドに乗り上げてくる。
右手を蘭子の頬に添えてから、当然のようにこちらに近づいてきた律の顔。
それを理解するよりも早く、蘭子の唇はあっという間に彼女によって奪われていた。
初めて触れた人の唇の感触。それを味わう間も無く、一瞬で筒井律の唇は離れていく。
ジワジワと頬が赤らんで、全身を桃色に染め上げている自信があった。
慌てて距離を取ろうとするも、すぐに手の甲に彼女の手が添えられてしまう。
「な、なにしてるの!」
「次のテスト、私がまた一位だったら付き合って」
「は…?」
あまりに突然過ぎる交換条件に、ぽかんとしてしまう。一体彼女が何を言っているのか、意味は分かっても理解が出来ないのだ。
「なんで…だって、筒井さん他に好きな人いるって……」
「いるよ?私は央咲さんが好きなの」
「え…?わ、私!?」
自分に人差し指を向ければ、律が迷いなく首を縦に振る。
氷の女王と呼ばれて、散々敵対してきた筒井律の思い人。
それが自分だなんて、信じられるはずがないだろう。
しかし嘘をついているわけではなさそうで、彼女は真っ直ぐに蘭子の目を見つめてきた。
「央咲さんの視界に入っていたかったから、必死に勉強して一位維持してるの……だからご褒美が欲しくて」
あの筒井律が央咲蘭子に想いを寄せている。交換条件を出されても、こちらにメリットなんてどこにもないのだから首を縦に振るはずがなかった。
どう断ろうかと悩んでいれば、天才と呼ばれた彼女は蘭子よりも一枚上手だったらしい。
「自信ないの?」
「は?」
「万年2位って言われてる央咲さんだもんね。次のテストも2位だろうって、一位とる自信ないんだ」
「馬鹿にしないで!受けて立つわよ、次こそ私が一位なんだから!」
「じゃあ、約束ね」
反射的に出た言葉に、後悔をしてももう遅い。
嬉しそうに顔を綻ばせた彼女は、またこちらの許可もなく蘭子の唇に自身のものを重ねてきたのだ。
「……ッ」
「央咲さん、本当に可愛い」
ファーストキスどころかセカンドキスまでも筒井律に奪われてしまった。
顔を赤らめながら必死に彼女から逃れようとするが、手をガッチリと握られているせいでそれも叶わない。
美しく、凍てついた氷のようだと謳われている学園の才女。とんでもない相手に好かれてしまったのではと、蘭子は頬を桃色に染め上げながらようやくことの重大さに気づいたのだ。
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